無効化の危機 交渉と対立 (1833年)

無効化の危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/02 22:18 UTC 版)

交渉と対立 (1833年)

ジャクソンは、関税が現行法で強制できるという以前の主張とは明らかに矛盾して、1833年1月16日に連邦議会に強制法教書を送った。サウスカロライナ州ボーフォートとジョージタウンの税関は閉ざされ、それぞれの港に停泊する船で代行するものとした。チャールストンでは、チャールストン港のピンクニー城かムールトリー砦のどちらかに税関が移されることになっていた。信用状よりも現金支払いが求められるとされ、州が逮捕を拒んだ違反者や州の無効化法でアメリカ合衆国巡回裁判所を排除した場合に起こるであろうあらゆる場合に備えて、連邦刑務所が造られるものとされた。最も議論の多いところでは1795年と1807年の民兵法であり、民兵と正規アメリカ軍の双方で税関法を強制することが認められるよう改正されることとされていた。サウスカロライナ州では、論争を無効化から提案されている強制執行の方に焦点を移し替えるような試みが成された。

強制法案はペンシルベニア州の保護主義者ウィリアム・ウィルキンスが委員長を務める上院司法委員会に送られ、ダニエル・ウェブスターとニュージャージー州のセオドア・フリーリングハイゼン議員によって支持された。それはジャクソンが求める全てをジャクソンに与えた。1月28日、上院は法案について討論引き延ばしを行うという動議を30対15票で否決した。この遅延させるという動議に賛成した票のうち2人を除いて全てはローワーサウスからのものであり、この地域からは3人のみが動議に反対する投票を行った。さらに票決を重ねるために、強制力の期間を制限し騒擾を防ぐことよりも抑圧するために軍隊を使うことを制限する提案が成された。下院の司法委員会では4対3票でジャクソンが軍隊を使うという要請を否決した。2月15日にカルフーンがそれに強く反対する主要演説を行うまでに、強制法案は一時的に立ち往生した[70]

関税問題については、妥協関税案を起草する任務が12月に、この時はグリアン・C・ヴァープランクが委員長を務める下院歳入委員会に割り当てられた。委員会案に関する下院の議論は1833年1月に始まった。ヴァープランク関税案は向こう年間で1816年レベルまで関税率を下げるが、保護という基本原則は維持するという提案だった。反ジャクソンの保護主義者達は、1832年関税法案を試してもみずに、「サウスカロライナ州の脅しや空威張りにみっともなく諂う」経済的惨事としてこの関税法案を見ていた。北部の民主党員は原則としてそれに反対しなかったが、自分達の選挙区民の様々な利益に対してまだ保護を求めていた。無効化派に同調する者達は保護原則を具体的に放棄するよう望み、妥協点として移行期間を長くすることは進んで提案した。ヴァープランク関税案は実行に移されないことは明らかだった[71]

サウスカロライナ州では、不必要な対立を避ける試みが成されていた。ヘイン知事はチャールストンで集めるよりも自分で作った25,000名の軍隊を地元で訓練するよう命令した。1月21日のチャールストンで開かれた大衆集会では、無効化執行期限である2月1日を、連邦会議での妥協関税法案審議に合わせて延期することが決められた。これと同時にバージニア州の検査官であるベンジャミン・ワトキンス・リーがチャールストンに到着し、ジャクソンと無効化派の双方を批判し、調停者としてバージニア州を提案する決議案を持ってきた[72]

ヘンリー・クレイは大統領選挙での敗北をまだよく受け止められておらず、関税交渉に関してどのような立場を取れるか決心がついていなかった。クレイの昔からの関心は、ジャクソンが最終的に保護関税主義をクレイのアメリカ・システムと共に葬り去ってしまう決心をするのではないかということだった。2月、製造者や砂糖産業の保護に賛成するルイジアナ州の砂糖関係者と相談した後で、具体的妥協案作成に動き出した。出発点として無効化派の提案する移行期間を認めたが、それを7年半から9年まで延ばし、最終目標は「商品価格に応じて」20%に置いた。まずその保護主義の基盤からの支持を得た後で、仲介者を通じてカルフーンに話を持っていった。カルフーンは受け入れる用意があり、クレイの寄宿舎でクレイと個人的に会談した後は、交渉が進行した[73]

クレイは2月12日に交渉の済んだ関税法案を提出し、即座にクレイを委員長に、テネシー州のフェリックス・グランディ、ペンシルベニア州|のジョージ・ダラス、バージニア州のウィリアム・キャベル・リーブス、ウェブスター、デラウェア州のジョン・M・クレイトンおよびカルフーンを委員とする特別委員会に委ねられた。2月21日、委員会はクレイが当初提案した案にほとんど近い形で法案を上院本会議に上程した。1832年関税法案は継続するが、20%以上の関税は全て2年毎に10分の1ずつ下げられ、最終的に1842年には20%まで戻されるとされていた。原則としての保護主義は放棄されず、もし国の利益が求めるならば関税を上げることも可能とされた[74]

交渉された合意事項によって具体的に結びつけられてはいなかったが、強制法案と妥協関税法案は容赦なく結びつけられた。クレイは2月25日の関税に関する討論を打ち切る演説で、ジャクソンのサウスカロライナ州に対する声明を扇動するものと非難し、強制法と同じ問題を認めたがその必要性を示唆し、妥協関税法案をバランスを戻し、法の規則を促進し、また最終的合意に達しない場合の結果だと言った「都市の破壊」「田園の荒廃」および「煙の立つ廃墟」を避けるための最終手段だと持ち上げることで、妥協に向けた声の心を掴んだ。下院は妥協関税法案を119対85で、強制法案を149対48で可決した。上院では妥協関税法案が29対16で通り、強制法案は多くの反対者が投票するよりも退場を選び、32対1で可決された[75]

カルフーンは最終妥協案の報せを持ってチャールストンに急行した。無効化協議会が再度3月11日に開催された。そこでは11月の無効化条例を撤廃し、「純粋に象徴的身振りとして」強制法案の無効化もした。無効化派は譲歩をしたとしても、関税問題での勝利を主張する一方、無効化に関する判断はさまざまだった。結局は多数派が支配したことで、奴隷制を続ける南部すなわち少数派には悪い前兆となった[76]。レットは3月13日の協議会でこのことを要約した。その警告は「奴隷を保有する人々は狂人であり、いや狂人よりさらに悪く、その手で運命を保たない」とし、次のように続けた。

この連邦政府の一歩一歩が貴方達の権利を越えて、貴方達固有の政策にどんどん近付いてくる。…全体世界は貴方達の制度に武器を取っている。…紳士達よ、欺されないようにしよう。我々が対抗している大きな悪を構成するものは関税の事ではない、内陸の改良ではない、さらには強制法でもない。…これらは政府の専制的な性格が明らかになった形態に過ぎないが、悪を構成するのは専制である。またこの政府が限られた政府になるまで…南部に自由もなければ、安全保障もない[77]

  1. ^ Remini, Andrew Jackson, v2 pp. 136-137. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143
  2. ^ Freehling, The Road to Disunion, pg. 255. Craven pg. 60. Ellis pg. 7
  3. ^ Craven pg.65. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143
  4. ^ a b Wilentz pg. 388
  5. ^ Ellis pg. 4
  6. ^ McDonald pg. vii. マクドナルドは、「アメリカ独立宣言からレコンストラクションの終わりまでの1世紀にアメリカ合衆国を悩ませた全ての問題の中で最も広い問題は、連邦の性質と、全体政府の権限と幾つかの州の権限の間に引かれた線に関する不一致に関するものだった。時にはこの問題が密かに泡立ち、大衆の意識表面の中には見えなかった。時にはそれが爆発した。何度も全体政府と地方政府の権限の間にあるバランスはあっちに行ったりこっちに行ったりしているように思われ、混乱を新たにされ反対の場所に向かっているだけだったが、闘争は決して収まらなかった」と書いた。
  7. ^ Ellis pg. 1-2.
  8. ^ Full text of the Kentucky and Virginia Resolutions are available at http://www.constitution.org/cons/kent1798.htm and http://www.constitution.org/cons/virg1798.htm.
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  10. ^ Banning pg. 388
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  13. ^ Brant, p.629
  14. ^ Ketchum pg. 396
  15. ^ Wilentz pg. 80.
  16. ^ Ellis p.5. マディソンはアメリカ・システムの大半が違憲だと考えたために、憲法の修正を要求した。歴史家のリチャード・ビューエル・ジュニアは、ハートフォード会議からの最悪の事態に備えるために、マディソン政権はニューイングランドが脱退した場合に軍隊を介入させる準備をしたと言っている。カナダ国境にいた軍隊がオールバニまで近付き、必要なときはマサチューセッツ州あるいはコネチカット州に進めるようにしていた。ニューイングランドの軍隊はまた王党派に焦点を当てたものとして仕えるようにその徴兵地域に戻った。Buel pg.220-221
  17. ^ McDonald pg. 69-70
  18. ^ Wilentz pg.166
  19. ^ Wilentz pg. 181
  20. ^ Ellis pg. 6. Wilentz pg. 182.
  21. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 92-93
  22. ^ Wilentz pg. 243.「経済史家のフランク・タウシッグは「この国で明らかに保護的政策の始まりになったと一般に言われている1816年関税法は、1789年関税法に始まる初期の一連の法にむしろ属しており、1824年、1828年および1832年の法律群とは違う物である。その最も高い恒久的関税率は20%であり、主に戦争の間に引き起こされた負債にかかる重い利率によって、以前の関税率に比べて増加したものだった。しかし、1819年の不況後、保護を求める動きが始まり、以前の時代には無かったような大衆の強い感情に後押しされた。」 http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?document=1136
  23. ^ Remini, Henry Clay pg. 232. Freehling, The Road to Disunion, pg. 257.
  24. ^ McDonald pg. 95
  25. ^ Brant, p. 622
  26. ^ Remini, Andrew Jackson, v2 pp. 136-137. マクドナルドは少し異なる理論的解釈を表明している。この法は「ニューイングランドの毛織物製造者、造船業者および船主に悪い影響を及ぼす」ものであり、ヴァン・ビューレンは、ニューイングランドと南部が結束して法案を廃案にすると読み、ジャクソン派には、北部には頑張ったけども必要な関税法を通せなかったと言い、南部には輸入税を増やす行動を阻止したと主張できる抜け道を用意できた。McDonald pg. 94-95
  27. ^ Cooper pg. 11-12.
  28. ^ Freehling, The Road to Disunion, pg. 255. 歴史家のアベリー・クレイブンは、「歴史家達は一般に、サウスカロライナ州の政治家達がいわゆる無効化の議論の中で実際の状況に対して苦闘していたという事実を無視した。歴史家達は国家主義と州の権限の間の大きな闘争を思い出し、これらの者達を単に論理のために憲法を洗練させることで騒いでいる理論家と表現した。ここにきて経済と農業の不況というはっきりした例が発生した。」Craven pg. 60
  29. ^ Ellis pg. 7. フリーリングは、州内で無効化に関わる分裂が一般にその地域が経済的に苦しんだ程度に比例していたと述べている。例外は「海岸地域の米と綿花の農園主」であり、経済不況にも耐えられる能力にも拘わらず無効化を支持した。この地域には奴隷の比率も最高に高い所だった。Freehling, Prelude to Civil War, pg. 25.
  30. ^ Cauthen pg. 1
  31. ^ Ellis pg. 7. Freehling, Road to Disunion, pg. 256
  32. ^ Freehling, Road to Disunion, pg. 254
  33. ^ Craven pg.65.
  34. ^ Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143.
  35. ^ South Carolina Exposition and Protest
  36. ^ Niven pg. 158-162
  37. ^ Niven pg. 161
  38. ^ Niven pg. 163-164
  39. ^ Walther pg. 123. Craven pg. 63-64.
  40. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 149
  41. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 152-155, 173-175. 州の協議会を招集するには州議会両院の3分の2以上の賛成が必要だった。
  42. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 177-186
  43. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 205-213
  44. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 213-218
  45. ^ Peterson pg. 189-192. Niven pg. 174-181. カルフーンはマクダフィーの演説について、「私はそれを全く軽率と考え、ハミルトンにはそう書き送った。 … 私は明らかにそれが危機をもたらすものだと思い、即座に男らしく合わさねばならないと思った」と記した。フリーリングはしばしばその作品の中で、急進派のことを1831年以前でも「カルフーン派」と呼んでいる。これはカルフーンの『解説』の回りに集まった急進派がまだ実際ではないまでもカルフーンを思想的に好んだからだった。
  46. ^ Niven pg. 181-184
  47. ^ Ellis pg. 193. Freehling, Prelude to Civil War, pg. 257.
  48. ^ Freehling pg. 224-239
  49. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 252-260
  50. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 1-3.
  51. ^ Ellis pg. 97-98
  52. ^ Remini, Andrew Jackson, v. 3 pg. 14
  53. ^ Ellis pg. 41-43
  54. ^ Ellis p. 9
  55. ^ Ellis pg. 9
  56. ^ Brant, p.627.
  57. ^ Ellis pg. 10. Ellis wrote, 「しかし、無効化派がケンタッキー州とバージニア州決議に盛り込まれた原則の論理的拡張であると主張することで議論の多い原理を正当化する試みは、彼(マディソン)を動揺させた。出版も意図して念入りに書いた私的文書で、無効化派の主張の多くを否定し、特にサウスカロライナ州が、もしある州が連邦政府の法を無効化する場合、それは憲法の修正によってのみ覆されると主張したことを激しく非難した。」 Full text of the letter is available at http://www.constitution.org/jm/18300828_everett.htm.
  58. ^ Brant, pp. 626-7. ウェブスターは統合する立場を再度主張することは無かった。
  59. ^ McDonald pg.105-106
  60. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 233-235.
  61. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 233-237.
  62. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 255-256 Peterson pg. 196-197.
  63. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 343-348
  64. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 347-355
  65. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 358-373. Peterson pg. 203-212
  66. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 382-389
  67. ^ Ellis pg. 82
  68. ^ Remini, Andrew Jackson, v. 3 pg. 9-11. Full text of his message available at http://www.thisnation.com/library/sotu/1832aj.html
  69. ^ Ellis pg 83-84. Full document available at: http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/proclamations/jack01.htm
  70. ^ Ellis pg. 160-165. Peterson pg. 222-224. Peterson differs with Ellis in arguing that passage of the Force Bill “was never in doubt.”
  71. ^ Ellis pg. 99-100. Peterson pg. 217.
  72. ^ Wilentz pg. 384-385.
  73. ^ Peterson pg. 217-226
  74. ^ Peterson pg. 226-228
  75. ^ Peterson pg. 229-232
  76. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 295-297
  77. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 297. Willentz pg. 388
  78. ^ Remini, Andrew Jackson, v3. pg. 42.
  79. ^ McDonald pg. 110
  80. ^ Cooper pg. 53-65
  81. ^ Ellis pg. 198
  82. ^ Brant p. 646; ラッシュはマディソン夫人(ドリー・マディソン)の手にあった写しを出版した。原稿も存在した。当時のエドワード・コールズに宛てた手紙(Brant, p. 639)では問題の敵とは無効化派だと明らかにしている。
  83. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg.346-356. McDonald (pg 121-122)は、1833年から1847年の期間の州の権限は「事実上党派に拠らない」連邦政府を作ることにほぼ成功したと見た。しかしこのことは、「国政の場が新しく上がってきた奴隷制問題の熱い議論の中心となり、テキサス共和国併合に付いての議論で沸騰点に達する」ようになって、政治的調和を保証できなくなった、としている。 pg. 121-122
  84. ^ Cauthen pg. 32





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