無効化の危機 サウスカロライナ州における無効化への歩み (1828年-1832年)

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無効化の危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/02 22:18 UTC 版)

サウスカロライナ州における無効化への歩み (1828年-1832年)

歴史家のアベリー・クレイブンは、1828年から1832年の議論は偏にサウスカロライナ州の事情に限定された問題だとしている。州自体は団結しておらず、両論はほぼ同じくらいの勢力だった。州の西部やジョエル・ポインセットに率いられたチャールストンの1派はほぼ最後までジャクソン大統領に忠実なままだった。ほんのわずかな部分が「国家主義的北部対州の権限南部」の間の紛争に関わっていた[33]

1828年関税法の最終票決が行われた後で、サウスカロライナ州選出議員は2つの集会を開いたが、2回目は上院議員ロバート・Y・ヘインの家でだった。彼等は南部が団結して反応しようという提案を仕掛けることを拒絶されており、州単独に如何に反応するかに焦点を当てた。多くの者が、関税政策は近い将来に脱退に導く可能性があるというジョージ・マクダフィーの考えに同意する一方で、この問題は近付きつつある大統領選挙ではできるだけ論点にしないということでも全員が一致した。カルフーンはこの集会に居なかったが、緩衝効果を与える者として機能した。カルフーンは関税を下げさせる第1段階は次の選挙でアダムズとその支持者達を破ることだと考えた。ウィリアム・C・プレストンはサウスカロライナ州議会のために、カルフーンが関税の状況に関する報告書を準備するよう求めた。カルフーンは直ぐにこの提案を飲み、数週間のうちに35,000語からなる後に『サウスカロライナ州の解説と抗議』と呼ばれるものの草稿を書き上げた[34]

カルフーンの「解説」は1828年後半に完成した。この中で1828年関税法は商業や農業よりも製造業に有利となるようになっているので、違憲であると論じた。関税を課す権限は歳入を得るためにのみ使われると考え、アメリカの産業が外国との競争で保護されるためではないとした。民主的に選ばれた集会で行動するある州、あるいは幾つかの州の市民は、憲法に違背する連邦政府のいかなる法も拒否権を発動する固有の権限があると考えた。この拒否権は無効化理論の核であり、カルフーンの「解説」で次の様に説明された。

我々の制度に最も精通していないあらゆる者によってそうあらねばならないように、委任される主権は中央政府と州政府の間で分けられており、州政府は中央政府と同じ権限でその一部を持っているということがもし譲歩されるならば、州がその権限に反していると判断する権利を否定するのは不可能に思われ、その是正のために適当な救済策が適用されるべきである。このような場合に判断する権利は主権に基本的に備わっており、それを州は主権自体を失わずに奪われることはできず、下位の状態に落とされることもあり得ない。実際に権限を分けること、および互いに当てられた部分の排他的判断権を他方に与えることは、事実上全く分けないことと同じである。そのような排他的権利を中央政府に任せること(どの部局が実行するかにはよらない)は、事実上、大きな集合政府に権限の制限無しに転換することであり、州からは全ての権利を奪うことである。条件の力を理解するのは不可能であり、平明に結論を否定するのも不可能である[35]

この報告書は当時の不満を呼んだ関税に関する南部の具体的苦情も詳述していた[36]。マクダフィーのような「短気な人」は連邦政府に対して過激な行動を議会に採り入れさせる怖れもあったので、歴史家のジョン・ニーブンはカルフーンの文書における政治目的を次のように表現している。

暑く湿気の多い夏の間を通じて、騒々しい農園主達の感情は錯乱に近い興奮状態にまで沸き上がっていった。『解説』で造り上げられた議論の全体傾向は、関税法の撤廃にむけて動き出すような激しい動きを弱らせる冷静で熟慮された方法でこの問題を提示することが意図されていた。それは自意識が高くなっていく南部が特に奴隷制の問題で懲罰を考慮するような将来の法制化に対して合衆国の他の地域に警告を与えるものでもあった[37]

報告書は州議会に提出され、5,000部が複写されて配布された。カルフーンはジャクソンの次の大統領になるという構想もあったので、著者だと分からないようにしていたが、この情報は直ぐに漏れた。州議会は当時この報告書について何の行動も採らなかった[38]

1828年夏、間もなくサウスカロライナ人の中でも最も急進的と考えられるようになるロバート・バーンウェル・レットが関税に関する論争に入ってきた。レットは州議会議員であり、議会の特別会期を開催するよう知事に要求した。レットは傑出した演説家でもあり、その選挙区民には連邦議会における多数派に抵抗するよう訴えた。レットは何もしないことの危険性について次のように述べた。

しかし、もし貴方達が自分で疑うならば、もし貴方達が彼等の導くところどこでもそのままに最終結果まで貴方達の主義を持ち続ける用意が無ければ、もし貴方達が名誉よりも命を愛するならば、危険な自由や栄光よりも安易を好むならば、目覚めるな!動き出すな! -- 無力な抵抗は貴方達の破滅に仕返しを加えるだろう。強欲な抑圧者とほほえみながら平和に暮らし、貴方達の従順な忍耐力が貧窮状態や絶望に打ち勝って残るという高貴な慰めと共に死ぬのだ[39]

レットの革命や戦争を説いた言辞は1828年の夏ではあまりにまだ過激だったが、ジャクソンの当選が確実になった10月28日にジェイムズ・ハミルトン・ジュニアが「正式な無効化運動を起ち上げた。」[40]ハミルトンは以前の国家主義を否認し、大衆には「貴方達の監督者は、仕組みの乱用や腐敗から思いやりの心やほんのわずかな同情心も無しに、直ぐに専制者になるに違いない」と警告した。ハミルトンはジェファーソンの言う無効化の「正当な救済策」の遂行を要求した。ハミルトンは演説原稿の写しを直接次期大統領のジャクソンに送りつけた。しかし、ハミルトンやマクダフィーによる州全体に拡がる運動にも拘わらず、1829年に無効化に関わる会議を招集するという提案は、1828年暮れに招集されたサウスカロライナ州議会で否決された。カルフーン、ヘイン、スミスおよびウィリアム・ドレイトンのような州の指導層は全て公には何もしないでいることができるか、あういは次の数年間は無効化に反対した[41]

州内の急進派と保守派の間の分裂は1829年から1830年の間は続いた。州内の内陸部との交易を促進するために鉄道建設予算を確保する州の計画が挫折した後で、州は連邦議会に鉄道建設を試みる会社に250,000ドルの投資を請願した。連邦議会はこの問題を棚上げし、サウスカロライナ州内では州の投資を望む者と再度連邦政府の関与を求めようとする者との間で議論が再開された。この議論では州内のそこそこの少数派がクレイのアメリカ・システムに興味を持っていることが明らかになった。しかし、ウェブスターとヘインの討論による影響で急進派を活性させ、中道派もその方向に動くようになった[42]

1830年のサウスカロライナ州選挙運動は関税問題と州協議会の必要性に焦点が当てられた。急進派は守勢に立って、協議会は必ずしも無効化賛成にはならないと重点を移した。有権者に拘束されない協議会が問題となる選挙戦を提示された所では、急進派が概して勝利した。保守派が効果的に選挙戦を無効化に付いてのものと定義した所では、急進派が敗北した。10月の選挙は辛うじて急進派が制したが、問題の曖昧さによって具体的な権能無しに置いておかれた[43]。しかし、サウスカロライナ州では知事が議会で選ばれるのであり、急進派運動の指導者ジェイムズ・ハミルトンが知事に選ばれ、その仲間の急進派ヘンリー・L・ピンクニーがサウスカロライナ州下院の議長に選出された。空席だった合衆国上院議員には、より急進派のスティーブン・ミラーがウィリアム・スミスを破って当選した[44]

急進派が指導層を占めた1831年、気運は急進派の方に流れ始めた。州政界はこの時無効化派と連邦維持派の線で厳密に分かれた。さらに、議会の勢力は協議会招集に必要な3分の2には届いていなかった。急進派の多くは、カルフーンに大統領になろうとしていることの無益さを悟らせれば自分達の仲間に引き込めると考えた。一方カルフーンは自分でマーティン・ヴァン・ビューレンが明らかにジャクソンの後継者として擡頭しているという結論を引き出していた。ハミルトンの貢献でジョージ・マクダフィーがチャールストンで3時間の演説を行い、いかなる犠牲を払っても関税法を無効化すべきと要求した。州内ではマクダフィーの演説の成功が連邦政府との軍事的対決と州自体の内戦の可能性をもたらしたように見られた。カルフーンはもはや沈黙が選択肢としては受け付けられなくなり、州内で反関税派を支配する機会を探り、6月までにそのフォートヒル演説と呼ばれることになるものを準備した[45]

バージニア州のナット・ターナーの反乱は南部中に警鐘を鳴らした。

カルフーンの演説は1831年7月26日に出版され『解説』の中で作った立場を繰り返し、拡げた。演説の大半で論理はジャクソン派大半の州の権限の立場に一致しており、ダニエル・ウェブスターですらそれは「最も有能で最も称賛すべきことであり、それゆえに特別な形態の革命を最も危険に正当化するものである」と述べている一方で、この演説はカルフーンをはっきりと無効化の側に置いた。サウスカロライナ州内で、演説の中にあった穏健な試みは何でもバージニア州でのナット・ターナーの反乱の報せが届いたときにかき消されてしまった。奴隷制度廃止運動と関税問題の党派的側面との間に関連性を見付けたのはカルフーンだけではなかった[46]。それはカルフーンが1830年9月11日の手紙に次のように書いていたことで確認できる。

私は関税法を現在の不幸な物事の真の原因としてよりも好機と考えている。真実はもはや偽装できず、南部州固有の国内制度と彼の土地が彼の産業に与えた結果としての方向は、課税と予算化に関連して、その危険性に反して合衆国の多数派に反比例する関係においており、州に担保された権利の保護的権限が無ければ、最終的に反乱を強いるか、彼等の最高の利益を犠牲にさせ、彼等の国内制度を植民地化などの計画に従わせ、彼等自身や子供達を悲惨な状態に貶めることを強いるに違いない[47]

この見解から、無効化推進派はその組織化と言辞を加速させた。1831年7月、州の権限と自由貿易の協会がチャールストンで結成され、州中に拡大した。サウスカロライナ州の貴族達に率いられた過去の政治組織とは異なり、この集団は奴隷を保有しない農夫、少数の奴隷を保有する者、およびチャールストンの非農家まで民衆の全ての階層を具体的対象にしていた。ハミルトン知事はこの協会が政治的かつ社会的組織であり、州内で拡大するという見解の提唱者であり、1831年の冬と1832年の春には協議会を開いて無効化運動を州内で活性化するよう呼びかけた。保守派は組織でも指導力でも急進派に対抗できなかった[48]

1832年の州選挙では「緊張に包まれ、暴力がちりばめられた」ものとなり、「礼儀正しい討論がしばしば辺境の乱闘に悪化して」いった。それまでの選挙とは異なり、選択は無効化派か連邦維持派かではっきりしていた。結果は無効化派の勝利となり、1832年10月20日、ハミルトン知事は議会に協議会を検討する特別会期を要求した。議会の票決は、下院で96対25、上院で31対13となった[49]

1832年11月、無効化協議会が開催された。この協議会は1828年と1832年の関税が違憲であり、1833年2月1日以降、サウスカロライナ州内では強制されないと宣言した。さらに税金を徴収しようとするために軍隊を使う試みは州を脱退に導くものだと宣言した。1833年にハミルトンを引き継いだロバート・ヘイン知事は2.000名の騎馬民兵と25,000名の歩兵を編成し、軍事衝突の場合は即座にチャールストンに行軍することとした。これらの部隊は北部で10万ドルで購入した武器で武装されることになった[50]

議会で成立した授権法規は、もし可能ならば衝突を避けてその過程で法的見地のオーラを生むように慎重に構築された。連邦維持派との紛争を避けるために、輸入業者が望むならば関税を払うことを認めた。その他の者には、税関職員から渡される紙の関税証書を得ることで関税を払ったものとされた。彼等は期限が来たときにその証書への支払を拒否し、もし税関職員が物品を応酬した場合は、その商人は州裁判所に物品の返還を求めて動産占有回復の令状を求めて提訴することとされた。(物品を連邦軍の保護下に置くことで)物品の返還を拒んだ税関職員は物品価格の2倍を払う義務があるとされた。州役人と判事が法を支持することを確実にするために、新しく州役人になる者には試験宣誓が要求され、それで無効化条例の支持の下に結束させることとされた[51]

もしカロライナの神聖な大地が侵入者の足で汚されるならば、あるいは防衛のために流したその市民の血で汚されるならば、全能なる神を信じ、その胸で慈しまれてきたその息子他達の誰も我ら共通の母に対して親殺しの武器を取り上げることはないだろう。憲法に保障される自由を求めたこの偉大な闘争でその母が1人で立ち上がっているとしても、この州の広い境界内で救援のために飛び立とうとせず、その防衛のために命を投げ出さす用意のない臆病な者は1人としていないであろう[52]

  1. ^ Remini, Andrew Jackson, v2 pp. 136-137. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143
  2. ^ Freehling, The Road to Disunion, pg. 255. Craven pg. 60. Ellis pg. 7
  3. ^ Craven pg.65. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143
  4. ^ a b Wilentz pg. 388
  5. ^ Ellis pg. 4
  6. ^ McDonald pg. vii. マクドナルドは、「アメリカ独立宣言からレコンストラクションの終わりまでの1世紀にアメリカ合衆国を悩ませた全ての問題の中で最も広い問題は、連邦の性質と、全体政府の権限と幾つかの州の権限の間に引かれた線に関する不一致に関するものだった。時にはこの問題が密かに泡立ち、大衆の意識表面の中には見えなかった。時にはそれが爆発した。何度も全体政府と地方政府の権限の間にあるバランスはあっちに行ったりこっちに行ったりしているように思われ、混乱を新たにされ反対の場所に向かっているだけだったが、闘争は決して収まらなかった」と書いた。
  7. ^ Ellis pg. 1-2.
  8. ^ Full text of the Kentucky and Virginia Resolutions are available at http://www.constitution.org/cons/kent1798.htm and http://www.constitution.org/cons/virg1798.htm.
  9. ^ James Madison, James Madison, Virginia Resolutions, 21 Dec. 1798
  10. ^ Banning pg. 388
  11. ^ Brant, p. 297, 629
  12. ^ Brant, pp. 298.
  13. ^ Brant, p.629
  14. ^ Ketchum pg. 396
  15. ^ Wilentz pg. 80.
  16. ^ Ellis p.5. マディソンはアメリカ・システムの大半が違憲だと考えたために、憲法の修正を要求した。歴史家のリチャード・ビューエル・ジュニアは、ハートフォード会議からの最悪の事態に備えるために、マディソン政権はニューイングランドが脱退した場合に軍隊を介入させる準備をしたと言っている。カナダ国境にいた軍隊がオールバニまで近付き、必要なときはマサチューセッツ州あるいはコネチカット州に進めるようにしていた。ニューイングランドの軍隊はまた王党派に焦点を当てたものとして仕えるようにその徴兵地域に戻った。Buel pg.220-221
  17. ^ McDonald pg. 69-70
  18. ^ Wilentz pg.166
  19. ^ Wilentz pg. 181
  20. ^ Ellis pg. 6. Wilentz pg. 182.
  21. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 92-93
  22. ^ Wilentz pg. 243.「経済史家のフランク・タウシッグは「この国で明らかに保護的政策の始まりになったと一般に言われている1816年関税法は、1789年関税法に始まる初期の一連の法にむしろ属しており、1824年、1828年および1832年の法律群とは違う物である。その最も高い恒久的関税率は20%であり、主に戦争の間に引き起こされた負債にかかる重い利率によって、以前の関税率に比べて増加したものだった。しかし、1819年の不況後、保護を求める動きが始まり、以前の時代には無かったような大衆の強い感情に後押しされた。」 http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?document=1136
  23. ^ Remini, Henry Clay pg. 232. Freehling, The Road to Disunion, pg. 257.
  24. ^ McDonald pg. 95
  25. ^ Brant, p. 622
  26. ^ Remini, Andrew Jackson, v2 pp. 136-137. マクドナルドは少し異なる理論的解釈を表明している。この法は「ニューイングランドの毛織物製造者、造船業者および船主に悪い影響を及ぼす」ものであり、ヴァン・ビューレンは、ニューイングランドと南部が結束して法案を廃案にすると読み、ジャクソン派には、北部には頑張ったけども必要な関税法を通せなかったと言い、南部には輸入税を増やす行動を阻止したと主張できる抜け道を用意できた。McDonald pg. 94-95
  27. ^ Cooper pg. 11-12.
  28. ^ Freehling, The Road to Disunion, pg. 255. 歴史家のアベリー・クレイブンは、「歴史家達は一般に、サウスカロライナ州の政治家達がいわゆる無効化の議論の中で実際の状況に対して苦闘していたという事実を無視した。歴史家達は国家主義と州の権限の間の大きな闘争を思い出し、これらの者達を単に論理のために憲法を洗練させることで騒いでいる理論家と表現した。ここにきて経済と農業の不況というはっきりした例が発生した。」Craven pg. 60
  29. ^ Ellis pg. 7. フリーリングは、州内で無効化に関わる分裂が一般にその地域が経済的に苦しんだ程度に比例していたと述べている。例外は「海岸地域の米と綿花の農園主」であり、経済不況にも耐えられる能力にも拘わらず無効化を支持した。この地域には奴隷の比率も最高に高い所だった。Freehling, Prelude to Civil War, pg. 25.
  30. ^ Cauthen pg. 1
  31. ^ Ellis pg. 7. Freehling, Road to Disunion, pg. 256
  32. ^ Freehling, Road to Disunion, pg. 254
  33. ^ Craven pg.65.
  34. ^ Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143.
  35. ^ South Carolina Exposition and Protest
  36. ^ Niven pg. 158-162
  37. ^ Niven pg. 161
  38. ^ Niven pg. 163-164
  39. ^ Walther pg. 123. Craven pg. 63-64.
  40. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 149
  41. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 152-155, 173-175. 州の協議会を招集するには州議会両院の3分の2以上の賛成が必要だった。
  42. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 177-186
  43. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 205-213
  44. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 213-218
  45. ^ Peterson pg. 189-192. Niven pg. 174-181. カルフーンはマクダフィーの演説について、「私はそれを全く軽率と考え、ハミルトンにはそう書き送った。 … 私は明らかにそれが危機をもたらすものだと思い、即座に男らしく合わさねばならないと思った」と記した。フリーリングはしばしばその作品の中で、急進派のことを1831年以前でも「カルフーン派」と呼んでいる。これはカルフーンの『解説』の回りに集まった急進派がまだ実際ではないまでもカルフーンを思想的に好んだからだった。
  46. ^ Niven pg. 181-184
  47. ^ Ellis pg. 193. Freehling, Prelude to Civil War, pg. 257.
  48. ^ Freehling pg. 224-239
  49. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 252-260
  50. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg. 1-3.
  51. ^ Ellis pg. 97-98
  52. ^ Remini, Andrew Jackson, v. 3 pg. 14
  53. ^ Ellis pg. 41-43
  54. ^ Ellis p. 9
  55. ^ Ellis pg. 9
  56. ^ Brant, p.627.
  57. ^ Ellis pg. 10. Ellis wrote, 「しかし、無効化派がケンタッキー州とバージニア州決議に盛り込まれた原則の論理的拡張であると主張することで議論の多い原理を正当化する試みは、彼(マディソン)を動揺させた。出版も意図して念入りに書いた私的文書で、無効化派の主張の多くを否定し、特にサウスカロライナ州が、もしある州が連邦政府の法を無効化する場合、それは憲法の修正によってのみ覆されると主張したことを激しく非難した。」 Full text of the letter is available at http://www.constitution.org/jm/18300828_everett.htm.
  58. ^ Brant, pp. 626-7. ウェブスターは統合する立場を再度主張することは無かった。
  59. ^ McDonald pg.105-106
  60. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 233-235.
  61. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 233-237.
  62. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 255-256 Peterson pg. 196-197.
  63. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 343-348
  64. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 347-355
  65. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 358-373. Peterson pg. 203-212
  66. ^ Remini, Andrew Jackson, v.2 pg. 382-389
  67. ^ Ellis pg. 82
  68. ^ Remini, Andrew Jackson, v. 3 pg. 9-11. Full text of his message available at http://www.thisnation.com/library/sotu/1832aj.html
  69. ^ Ellis pg 83-84. Full document available at: http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/proclamations/jack01.htm
  70. ^ Ellis pg. 160-165. Peterson pg. 222-224. Peterson differs with Ellis in arguing that passage of the Force Bill “was never in doubt.”
  71. ^ Ellis pg. 99-100. Peterson pg. 217.
  72. ^ Wilentz pg. 384-385.
  73. ^ Peterson pg. 217-226
  74. ^ Peterson pg. 226-228
  75. ^ Peterson pg. 229-232
  76. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 295-297
  77. ^ Freehling, Prelude to Civil War, pg. 297. Willentz pg. 388
  78. ^ Remini, Andrew Jackson, v3. pg. 42.
  79. ^ McDonald pg. 110
  80. ^ Cooper pg. 53-65
  81. ^ Ellis pg. 198
  82. ^ Brant p. 646; ラッシュはマディソン夫人(ドリー・マディソン)の手にあった写しを出版した。原稿も存在した。当時のエドワード・コールズに宛てた手紙(Brant, p. 639)では問題の敵とは無効化派だと明らかにしている。
  83. ^ Freehling, Prelude to Civil War pg.346-356. McDonald (pg 121-122)は、1833年から1847年の期間の州の権限は「事実上党派に拠らない」連邦政府を作ることにほぼ成功したと見た。しかしこのことは、「国政の場が新しく上がってきた奴隷制問題の熱い議論の中心となり、テキサス共和国併合に付いての議論で沸騰点に達する」ようになって、政治的調和を保証できなくなった、としている。 pg. 121-122
  84. ^ Cauthen pg. 32





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