涙の道 強制移住

涙の道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/22 07:15 UTC 版)

強制移住

「涙の道国立歴史の道」のルートマップ。青い点線は陸路、青い線は水路、緑色の線はその他の移住経路

ニュー・エコタ条約に対する抗議が続いた。1838年春、ロス首長は15,000名以上のチェロキー族から署名を集め、合衆国議会が条約を無効にすることを求める請願書を提出した。多くのアメリカの白人も条約のあやふやな合法性に怒り、議会にチェロキー族の移住を強制しないよう求めた。例えば、1838年4月23日ラルフ・ウォルド・エマーソンは、ジャクソンの後継者マーティン・ヴァン・ビューレンに手紙を書き、「チェロキー族に大きな非道行為」を行使しないよう訴えた。[4]

それにもかかわらず、自発的な移住の期限である1838年5月23日が近づくと、ヴァン・ビューレン大統領はウィンフィールド・スコット将軍に強制移住作戦の指揮を割り当てた。スコットは約7,000名の兵士を率いて、5月17日にニュー・エコタに到着した。部隊は5月26日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がった。約17,000名のチェロキー族インディアンと富裕なチェロキー族に所有されていた約2,000名の黒人奴隷が、住んでいた家から銃を突きつけられて3週間にわたって移動させられ宿営地に集められた。多くは背中に衣類を負っただけだった。続いて出発点に指定されたテネシー川沿いのロスズランディング(テネシー州チャタヌーガ)とガンターズランディング(アラバマ州ガンターズビル)およびハイワシー川(テネシー州カルフーン)沿いのチェロキー族部局に近いカス砦(テネシー州チャールストン)に移動させられた。それらの地点からはインディアン居留地まで、ほとんどが徒歩で時には馬車ボートを組み合わせておよそ1,200マイル (1,900 km)の距離を3つの経路で進んだ。

最初の宿営地で赤痢などの病気が流行り、多くの者が死んだ。3つの経路に送り出された後、1つのチェロキー族集団がスコット将軍に涼しくなって行進が容易になるまで待ってくれるように嘆願した。これが認められ、この時敗北を認めていたロス首長は残りの行程がチェロキー族委員会の監督で進められるように進言した。これには費用が嵩むので合衆国政府の中に反対の声が挙がったが、スコット将軍は残りの11,000名のチェロキー族をロス首長に預けて移動させる約定を裁定した。チェロキー族の管理による行進は8月28日に始まり、平均1,000人ずつの13の集団になって進んだ。この配慮はすべての者にとって改善であったが、病気がまだ多くの命を奪った。

涙の道の結果として死亡した者の数については様々な推測がなされた。アメリカ人の医者で宣教師のエリザー・バトラーは、一つの隊と歩んだ者であるが、宿営地で2,000名道中で2,000名と見積もった。この合計4,000名という数字はよく引用される数字となっている。1973年の学者による人口統計調査では合計で2,000名が死んだとされた。1984年の別の調査では合計8,000名となった。[5]

旅の途中で人々は「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高めていたと言われている。伝統的なキリスト教賛美歌が、この時より前に宣教師のサミュエル・ウースターとチェロキー族のエリアス・ブーディノットの手助けによってチェロキー語に訳されていた。以後、この歌はチェロキー族インディアンのある種の国歌になった。[6]


  1. ^ The Trail of Tears”. PBS Online. 2007年5月7日閲覧。
  2. ^ Trail of Tears history.com
  3. ^ Remini, Andrew Jackson, p. 257, Prucha, Great Father, p. 212.
  4. ^ Letter to President Van Buren, ラルフ・ウォルド・エマーソン, 1838年 4月23日.
  5. ^ Prucha, Great Father, p. 241 note 58; Ehle, Trail of Tears, pp. 390-92; Russel Thornton, "Demography of the Trail of Tears" in Anderson, Trail of Tears, pp. 75-93.
  6. ^ Steve Turner, Amazing Grace: The Story of America's Most Beloved Song (Harper Collins, 2003), p. 167; Deborah L Duvall, Tahlequah: The Cherokee Nation (Arcadia Publishing, 2000), p. 35; Richard M. Swiderski, The Metamorphosis of English (Bergin Garvey/Greenwood, 1996), p. 91.


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