浅草松竹演芸場 沿革

浅草松竹演芸場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 13:24 UTC 版)

沿革

  • 1944年5月1日 映画館・浅草松竹館を改装し、演芸場としてスタート。
    戦時統制下、映画系列は松竹・東宝大映の3社に集約されていたが、更に紅白二系統に纏められ、多くの映画館が不要不急の遊休施設と化した。このため休廃館が相次いだが、松竹はこうした都内直営映画館の有効活用を図るべく、数館を演芸場に転換した。
  • 同時に開館した「松竹演芸場」
    • 銀座金春演芸場 東京西銀座の金春映画劇場を演芸場に転換。開場番組は落語芸術協会系が出演。戦災で焼失。
    • 池袋松竹演芸場 色物主体。戦災で焼失。
    • 五反田松竹演芸場 楽曲主体。戦災で焼失。五反田とあるが、実際は大崎百反坂に所在していた。
    • 新宿松竹館 色物主体。1945年4月より軽演劇主体。1946年3月映画館に復帰。松竹の手を離れ武蔵野映画劇場の手に移り、新宿ハリウッド・新宿大映・新宿ロマン劇場を経て1989年1月に閉館。現在キュープラザ新宿三丁目の場所。
  • 戦後、上記各館が廃座または映画館に復帰する中で、浅草松竹演芸場だけは軽演劇を中心とした興行を継続。
  • 1960年代の演芸ブームで、興行主体が色物(特に漫才コント)中心となる。
  • 1973年、デン助劇団の公演が終了。
  • 1983年11月10日、閉鎖。現在は浅草ROXビル本館敷地の一角。

興行形態

軽演劇を主体に、合間に色物が入る番組構成。昭和30年代は演歌なども入り、演劇もブームとなった女剣劇の一座が出演していた。軽演劇の一座は複数劇団が交互に出演していたが、トリはデン助劇団の芝居であった。昭和40年代に入ると演芸ブームもあってコントや漫才、漫談などが増加。とりわけ漫才協団(現・漫才協会)はこの劇場を本拠地としていた。昭和50年代になると軽演劇は上演されなくなった。

漫才ブームの終息と共に客足が鈍り閉鎖されたとされているが、実際の興行成績は終始黒字のままであり、この時期における松竹の演芸部門は大阪道頓堀角座の方が悪化していたという。実際の閉鎖理由は「再開発」ではあるが、建物取り壊し後敷地は松竹の手を離れ、TOCの手による再開発ビルが建っている。

なお、落語はほとんど上演されなかったが、昭和20年代は5代目古今亭今輔の口利きで今輔門下の噺家見習いが前座扱いで開口一番を務め、修行していた。

テレビ中継




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