河西回廊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 05:10 UTC 版)
歴史
前3世紀末までは、遊牧民の月氏の支配下にあったが、前3世紀末に冒頓単于が率いる匈奴が盛強となると月氏は匈奴によって西方に駆逐され、河西回廊は匈奴の支配下におかれた[4]。
漢王朝
前121年には、前漢の驃騎将軍の霍去病の遠征が匈奴の右翼を大破したことにより、河西の地を統括していた渾邪王が部民を率いて投降し、匈奴の勢力が減退し、これ以降、前漢の武帝によって武威・張掖・酒泉・敦煌の河西四郡が置かれる[4]。
これにより、東洋と西洋の交流が本格化したシルクロードが開通したといわれ、内陸の天山山脈・崑崙山脈山麓のオアシスルートに連なる重要な通路である河西回廊は、シルクロードの一部分として、中原と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路として機能した[3]。
王莽の末年から後漢の初期にかけては中原での政治混乱に対して、この地に張掖属国都尉として赴任していた竇融が、行河西五郡大将軍(敦煌・酒泉・張掖・武威・金城)を名乗り、五郡の郡太守連合の上に君臨する政権を樹立した[4]。
しかし、竇融は後漢王朝成立後まもなく、洛陽に使者を派遣して後漢の光武帝政権への帰順を表明し、紀元後32年、中原と河西の間に存在した隗囂政権が崩壊すると自ら洛陽に赴き、河西は後漢王朝の支配下に入った[4]。
その後、五胡十六国時代には、河西に五涼と総称される前涼(漢族)・後涼(氐族)・南涼(鮮卑)・北涼(匈奴)・西涼(漢族)政権が誕生し、その支配下に入る[4]。
5世紀から7世紀にかけては、青海地方の鮮卑系の遊牧民である吐谷渾が支配した[1]。
唐王朝
8世紀の唐の時代には、唐がその支配下に置いたが、安史の乱によって国が乱れると吐蕃の侵攻により、一時吐蕃の下に置かれた。唐末・五代・北宋期には帰義軍節度使やウイグルなどの支配下・影響下に入る[4]。
北宋期以降は1028年頃には、盛強となった西夏の支配下に入り、1226年に西夏がモンゴルによって滅ぼされると、それ以降はモンゴルの支配下となった[1]。
- ^ a b c 藤島範孝「河西走廊における地名の変遷 武威(涼州)と永昌(番和)について」北海道駒澤大学研究紀要21、1986年
- ^ シルクロード検定実行委員会 編『読む事典シルクロードの世界』NHK出版、2019年2月、44頁。ISBN 9784140817742。
- ^ a b c d 筆宝康之・劉輝「中国西北部の水資源配置と砂漠化対策 甘粛省河西回廊の考察と黄土高原論」立正大学経済学会、経済学季報、54、p13-61、2005年
- ^ a b c d e f 藤田高夫「中国西北における中国支配と中国文化 河西地方の場合」関西大学文化交渉学教育研究拠点、東アジア文化交渉研究、第2号、p181-186、2009年
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