沃沮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 06:17 UTC 版)
概要
『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に挹婁・夫余と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。
「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道の咸興市付近)にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた夫余・東濊や高句麗とは同系とされている。1958年に平壌直轄市楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、1961年に出土した「夫租長印」銀印、『漢書』巻28地理志「夫租」などから、本来は「夫租」であったと考えられている[1]。しかし、『三国志』以降は沃沮と表記されるが、これは夫租を誤記したためと考えられている。
東沃沮
『三国志』東沃沮伝によれば、始め衛氏朝鮮に帰属していたが、漢の武帝により漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)が置かれた際に、沃沮城(夫租城)を玄菟郡の県にした。以来、沃沮(夫租)は玄菟郡の支配下に入り、後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が楽浪郡に転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡に帰属することとなった。後、3世紀の頃には高句麗に臣従していた。魏の毌丘倹が高句麗に攻め入った際には、高句麗王の憂位居が北沃沮に逃れたという。この記事に続けて北沃沮・南沃沮と言う表現が見られるが、南沃沮とは東沃沮を指すと考えられている。
後に「白山靺鞨」となり、渤海国が建国されてからは渤海人の一部となった。
東沃沮は、東以外にも別の沃沮が存在するという意味ではなく、東方民族の沃沮程度の意味だという[1]。
北沃沮
前述の通り、北沃沮は『三国志』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で置溝婁ともいう。南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、北を挹婁と西を夫余と南を高句麗と接していた。
- 「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、通説では「置溝婁」は誤写で、「買溝婁」が正しいとされる。
- ^ a b 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、134頁。ISBN 978-4000108294。
- ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『後漢書』東夷列伝・高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
- ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異」、濊「言語法俗大抵与句麗同,衣服有異」、『後漢書』東夷列伝・東沃沮「言語,食飲,居處,衣服有似句驪」、濊「耆旧自謂与句驪同種,言語法俗大抵相類」
- ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝・挹婁「人形似夫餘,而言語各異」
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