江夏豊 記録

江夏豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 00:45 UTC 版)

記録

投手として

阪神時代は、最多勝利(1968・73年)、最優秀防御率(1969年)、最優秀投手沢村栄治賞(共に1968年)のタイトルを獲得、シーズン20勝以上が4度、6年連続リーグ最多奪三振を達成し、僅か4年目の1970年には通算奪三振数記録保持者である金田正一を上回る史上最短で、通算1000奪三振を記録するなど、名実ともにセントラル・リーグを代表する投手となった。

プロ2年目の1968年にマークしたシーズン401奪三振は2021年現在でも日本プロ野球記録であり、世界記録として認定されていないものの、MLB記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回っている。また、江夏は奪三振数だけでなく奪三振率も極めて高く、通算18年間の実働期間で奪三振数が投球回数を上回った年が9度もある。しかもその内4度は、先発投手だった阪神時代に記録している。シーズンの奪三振数が投球回数を上回ることは、佐々木主浩などの抑え投手では珍しくないが、先発投手では稀である。江夏のライバルだった堀内恒夫は、ついに一度も達成できなかった。

なお、広島在籍時代に対戦した古巣・阪神タイガース戦では一度も勝利投手になれず、現役通算での全球団勝利を逃している。

打撃

江夏は打者として、ノーヒットノーラン達成試合とオールスター9者連続奪三振の達成試合でどちらも本塁打を打っており、ノーヒットノーランは自身のサヨナラ本塁打で達成している。公式戦での通算は852打数128安打で打率.150、7本塁打の記録を残している。

親交

江夏が高校時代の練習試合で初めて対戦して以来、鈴木啓示と親交が深い。その一方で、鈴木と確執があった野茂英雄からは師匠として慕われていた。かつて近鉄バファローズにおいて監督を務めていた鈴木とエースだった野茂の衝突が取り沙汰されていた頃、江夏は「トレーニングに関する野茂の主張もわかるが、自らの経験から考えると鈴木の言うことも全て間違っているわけではなく、この件だけは野茂と同調は出来ない」と自著で語っている。

南海時代に野村に感銘を受けたきっかけとなった広島戦の試合で三振を奪った衣笠とは、江夏が広島に在籍していた頃から無二の親友となり、現役引退後も衣笠が亡くなるまで交流が続いた。江夏の著書によると、「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」と言い、衣笠の没後は「いいヤツを友人に持った。オレの宝物だ。自分もすぐ追いかけて、あの世で野球談議をするよ」とその死を悼んだ[97]

監督との関り

藤本定義

新人時代の江夏は、当時監督だった藤本定義に非常にかわいがられていた。「鬼監督」として数々の名選手を育て上げた藤本だが、野球人として最晩年に差し掛かっていた当時は好々爺としており、江夏と一服しながら球界の昔話を聞かせるのを好んでいた。江夏は藤本を陰で「おじいちゃん」と呼んでいたが、藤本がオールスターゲームで江夏を3連投させた川上哲治を見るや、シーズン再開後の巨人戦で川上を阪神ベンチに呼び出し、「おい、哲!うちの豊(江夏)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」と普段とは全くの別人のような剣幕で叱り付けたことがあった。他球団でありながら江夏にとって厳しい大監督の川上が、直立不動の姿勢で好々爺の藤本に怒鳴られているのを目の当たりにした江夏は、鬼監督時代の藤本が突然蘇ったことに心底驚いたという[16]。藤本と江夏の関係は藤本が退団した後も続き、江夏がのちに南海ホークスへトレードされた際には、藤本はショックを受けて号泣し、体調を崩してしまった。また、広島時代に江夏が自身初の優勝を決めた際には、既に高齢で歩行もままならなかったにも関わらず、広島のベンチ裏まで駆け付けて「本当によかったなぁ!おめでとう」と涙ながらに直接祝福していた。

野村克也

南海移籍後に野村からリリーフ転向を打診されて受け入れ、最優秀救援投手に輝くなど実績を残した江夏は野村に傾倒していき、自宅が近所同士だったこともあって家族ぐるみの付き合いをしていたという。江夏が夜遊びなどで帰宅が遅くなった際は、野村がまだ幼かった江夏の娘を自宅の風呂に入れたりすることもあったという。

江夏が野村を慕うきっかけは、江夏自身は前述の移籍交渉における広島戦での指摘だったというが、野村はこの出来事についてはあくまでも南海への移籍を決意した要因に過ぎないとしている。野村によると、江夏が自身を慕うようになったのは、江夏の意図的とも思える制球ミスで敗れた試合の後に黒い霧事件を引き合いに出して「疑惑を持たれた人間が、『自分は潔白だ』と口で何度言っても誰も信じない。マウンドでの態度で示せ」と厳しく叱責したところ、「阪神時代にはそんな言いにくいことを言ってくれる人はいなかった」と感激したことだったという。江夏は現在に至るまで、「野球に関しての見識は間違いなく球界一」と野村を評し、野村も生前は江夏を「自分が接した投手では一番の頭脳を持ったヤツ。史上最高の速球投手」と高く評価していた。

広岡達朗

日本ハム時代、監督に就任した広岡は江夏の弱点を守備にあると見抜き、チーム一丸でバント練習に取り組み、プレーオフでは西武のバント攻めに屈した。この経験から、江夏は広岡の野球観に傾倒していくようになる。しかし1984年の西武移籍は、その厳格な管理野球に嫌気し、広岡に反発するようになる。

江夏の西武退団の直接的な原因は、広岡との確執だった。自著によると、江夏は事前に野村に言われていたことでヘッドコーチ格の森昌彦バッテリーコーチの言うことはよく聞いたが(野村と森はチームを超えて長年の親友である)、広岡とは全くそりが合わなかった。衝突の決定的な原因は、1984年のキャンプのある日に経営陣も参加した朝食会の席で、健康のための栄養学に重きを置いて玄米や豆乳などを選手に普段から強制する広岡や、他のコーチ・選手がいる中で「ねぇ監督、こんなもの食べてなんで痛風なの?」と問いかけて広岡の怒りを買ってしまい、それ以降は出場機会が減らされたとされている。江夏が二軍落ちとなったのはプロ18年目で初のことだった[98]

なお、江夏は前述の事情から広岡について「人間的に許せないところがあった」と語っているが、一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観は高く評価しており、「人間として問題があっても、野球という面では教えられることが多かったし、素晴らしい指導者」と、監督としての広岡を高く評価している[99]。広岡も「江夏は投げることに関しては素晴らしかったし、何と言っても抜群に頭がいい」と評価している[100]


注釈

  1. ^ 塩釜が野球部の監督に就任したのは、同校に野球部が誕生した時監督の成り手がいなかったところ「それじゃ俺がやる」と志願したためであったという。
  2. ^ 江夏は後年、「巨人でもチーム打率が.250に満たなかったのだから、阪神なんて.210~.220くらいだった」と述懐している[17]。なお、1967年の実際のチーム打率は巨人が.265、阪神は.245である。
  3. ^ a b ただし、野村克也の著書「オレとO・N」によると、試合前日のスポーツ新聞に掲載された江夏のインタビューとして「日本記録はONから取りたい」、試合当日直前のインタビューでは江夏が「王、長嶋と連続して(三振を)取りたい」と語っていたといい、さらに「王は昔、『江夏のその話は眉唾』と言っていた」「(王の)次の打者の長嶋には、合わせたバッティングでショートゴロを打たれてしまっている」と述べている。このことから察するに、江夏本人が美化して話したことがマスコミで誇張されたまま何十年と経過し、本人も収拾がつかなくなってしまったので、ONは「江夏がそうしておきたいなら別に構わない」というスタンスだったこともあって、“長嶋から新記録を狙ったものの打たれてしまった。仕方ないので打順を一回りさせて王が来るまで、他の選手からは三振を取らないようにする”というのが真相だろうと述べている。
  4. ^ オールスターゲームでは、投手がイニング途中から登板した場合、次のイニングから数えて3イニングまで登板可能である。また、振り逃げの場合は1イニング4奪三振以上も可能のため、極めて特殊なケースではあるがルール上では1試合10奪三振以上も不可能ではない。
  5. ^ パ・リーグの野手が全員出場していたため、パ・リーグ監督の西本幸雄が打撃の良い山内を松沼博久西武ライオンズ)の代打に起用していた。
  6. ^ 江夏自身は、当時の日本ハムと同じ東京に本拠地を置くヤクルトスワローズあたりが移籍先ではないかと思っていたという。また、セ・リーグならヤクルト、パ・リーグなら近鉄を希望していた[62][63]
  7. ^ 大沢と江夏との対談では、のちに江夏が西武の在籍が1年で終わったこともあって、大沢が「結局、江夏の野球人生をオレが縮めたことになっちまったな」とも語っている[65]
  8. ^ 1974年・75年に着用したホーム用ユニフォームのレプリカだったが、実物と違い左袖には『OSAKA』ではなく、1976年以降のものに準じた虎マークが入っていた。
  9. ^ 11球団から勝利しているが、阪神タイガースからは未勝利に終わったため、全球団勝利は達成出来なかった。

出典

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