毛野 文献

毛野

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 15:45 UTC 版)

文献

東国の位置づけ

前述のように『古事記』『日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。『常陸国風土記』には、足柄峠以東は「我姫(あづま)」とみなされたこと、その分割が孝徳天皇(第36代)の時代に行われたことが記載されている[28]。この認識は『日本書紀』大化2年(646年)の東国国司に対する詔の内容や[原 4]、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現にも見られる[17]。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたと指摘される[28]

また『古事記』では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており[原 5]、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持っていたとも指摘される[29]

ヤマト王権の東国統治

『日本書紀』は東国の経営について、四道将軍豊城入彦命ヤマトタケル御諸別王(豊城入彦命三世孫)の各伝承を載せる。

四道将軍は、崇神天皇(第10代)10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣されたという伝承である[原 6][注 8]。4人のうち大彦命は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は会津で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。記載自体が伝承性の強いものであるが、考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野は未開の地であったと考えられている[30]

次いで崇神天皇48年、崇神天皇皇子の豊城入彦命が東国経営を命じられたという[原 7]。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており[原 8]、その後も命の子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていないと見られる[31]

景行天皇(第12代)の時代には、武内宿禰が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還した[原 9]。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された[原 10]。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている[32]。ヤマトタケルの遠征は毛野地域の本格的な経営に先立つ事業であったと見なす考えもある[33]

その後、景行天皇55年に彦狭島王(豊城入彦命の孫)が東山道十五国都督に任じられたが[原 11]、途中で没したため御諸別王(彦狭島王の子)が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという[原 12]。これをもって、御諸別王が実質的な毛野経営の祖と考えられる[31]

以上のように、毛野地域はヤマト王権による東国経営の後半期に進められたとされる[33]。加えて、東海道は「征討・帰還型」の派遣であるのに対し東山道は「治政・移住型」であるとする説がある[34]。そして御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった上毛野氏各人物の活躍が記述される。また傍系の吉弥侯部浮田国造)や下毛野国造に繋がると見られる上毛野田道は朝鮮での活動だけでなく、現在の宮城県まで進出し、雷神山古墳に埋葬されたと見る説もある[35]

大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と呼ばれる上毛野氏下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

武蔵国造の乱での関与

『日本書紀』には、安閑天皇元年(534年?)に起きたとされる武蔵国造の笠原氏の内紛(武蔵国造の乱)において、上毛野氏の関与が記されている[原 13]。この乱の中で、笠原使主は朝廷に援助を、小杵上毛野小熊に援助を求め、最終的に使主が勝利した。

上毛野小熊含め上毛野氏は上毛野国造であったと推測されており[16][注 9]、古くから定説として「使主 - ヤマト王権」対「小杵 - 上毛野」という対立の構造が提唱されてきた[36]。この中で、小杵の敗死とともに上毛野地域内に「緑野屯倉」が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。ただし、上毛野小熊が助けの求めに応じたかは明らかでないこと、小熊は処罰を受けておらずむしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないことなどから反論もある[36]

考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の埼玉古墳群(武蔵国造の本拠地と推測される)が成長するという傾向が見られる[26]


注釈

  1. ^ a b c なお、以前には太田天神山古墳以上の規模と推考される古墳の議論がなされていた。1つには、推定墳丘長220メートル以上として雷電山古墳(栃木県宇都宮市)が挙げられることがあったが(『栃木県の地名』雷電山古墳項等)、1990年の調査で推定古墳跡地上で住居跡が見つかり、大規模古墳であることは否定されている。また、米山古墳(栃木県佐野市)も「米山丘陵全体が古墳」だとして墳丘長約360メートルとする説があったが(現地説明板等)、現在はほぼ否定されている(米山古墳(とちぎの文化財))。
  2. ^ 群馬県内では、1935年の調査で8,423基の古墳が(『上毛古墳綜覧』)、2012-2015年度の調査で13,249基の古墳が確認されている("古墳王国裏付け1万3249基"<読売新聞、2017年3月5日記事>)。
  3. ^ 『万葉集』における表記は以下の通り。()内は歌番号。上つ毛野:「可美都氣努」(3404・3407・3415・3416・3417・3418・3420・3423)、「可美都氣努/可美都氣乃」(3405)、「可美都氣野」(3406)、「賀美都家野」(3412)、「可美都家野」(3434)。下つ毛野:「之母都家野」(3424)、「志母都家努」(3425)(万葉集検索システム(山口大学教育学部)参照)。
  4. ^ 日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。
  5. ^ なお「鬼怒川」と表記されるのは明治以後で、それ以前は「毛野川」のほか「絹川」「衣川」と表記されていた(「鬼怒川」参照)。
  6. ^ この中で、那須国造碑の評価に対して、碑文の内容からは下毛野国と対等な那須国があったことは不明であるとしている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』第三章のうち「下毛野君の本拠地」節)。
  7. ^ 詳しくは「戦場ヶ原」、「日光山縁起」、神戦「赤城と日光二荒山神戦」(赤城山ポータルサイト)参照。
  8. ^ なお『古事記』においては記載はあるが、4人は一括して取り扱われておらず「四道将軍」の名称もない(「四道将軍」参照)。
  9. ^ ただし、『先代旧事本紀』「国造本紀」を除いて上毛野氏が上毛野国造を務めたという史料はない(『日本歴史地名体系 群馬県の地名』上野国節)。
  10. ^ 西部に限定しなければ、常陸では墳丘長151メートルの梵天山古墳や182メートルの舟塚山古墳など、下総では墳丘長123メートルの三ノ分目大塚山古墳など、上総では墳丘長130メートルの高柳銚子塚古墳や144メートルの内裏塚古墳などが築造されている。
  11. ^ あと2例は三ノ分目大塚山古墳(千葉県香取市)と高柳銚子塚古墳(同県木更津市)。
  12. ^ 古墳のデータは『群馬県の歴史』・『栃木県の歴史』(山川出版社)、『群馬史再発見』(あさを社)等による。
  13. ^ 従来の通説では、古墳は全国的には大和(奈良県)に、東国では上毛野(群馬県)に集中しているといわれた。だが『前方後円墳集成』 ISBN 4-634-50010-8 における集計では、奈良県239基、群馬県410基、埼玉県131基に対し、東部は、茨城県で445基、千葉県では677基の前方後円墳が確認され、少なくとも数においては奈良や西部を凌ぐことが明らかになっている。
  14. ^ 『日本書紀』景行天皇条で夏花が物部君の祖と見える。
  15. ^ 古墳時代終末期に上総国では駄ノ塚古墳のほか、同じく武社国に径66ートルの円墳山室姫塚古墳が、また馬来田国に一辺44メートルの松面古墳須恵国に一辺40メートルの割見塚古墳などの方墳が造られている。

原典

  1. ^ 『宋書』倭国伝。
  2. ^ a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造条。
  3. ^ 『先代旧事本紀』「国造本紀」上毛野国造条。
  4. ^ 『日本書紀』大化2年3月条。
  5. ^ 『古事記』雄略天皇段。
  6. ^ 『日本書紀』崇神天皇10年条。
  7. ^ 『日本書紀』崇神天皇48年正月条。
  8. ^ 『日本書紀』崇神天皇段。
  9. ^ 『日本書紀』景行天皇25年7月条、同27年2月条。
  10. ^ 『日本書紀』景行天皇40年条、同51年条。
  11. ^ 『日本書紀』景行天皇55年2月条。
  12. ^ 『日本書紀』景行天皇56年8月条。
  13. ^ 『日本書紀』安閑天皇元年閏12月条。

出典

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  7. ^ a b 志田 & 1986年2月, p. 268.
  8. ^ 『群馬県の地名』赤城山項。
  9. ^ 『姓氏家系大辞典』(角川書店)。
  10. ^ 『上野名跡志』 22コマ。
  11. ^ 万葉仮名」参照。
  12. ^ 万葉集検索システム(山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。
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  15. ^ 『栃木県の地名』下野国節。
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  24. ^ 近藤 & 2001年11月, p. 12.
  25. ^ 「栃木県の旧国名「下野」について、上下で区別されているのはなぜか。上野・下野、上総・下総以外は、越前・越後のように全て前後で区別されているが。」(栃木県立図書館) - レファレンス協同データベース
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  102. ^ 森 & 1990年9月, p. 148.
  103. ^ 白石 & 1986年11月, p. 251.
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