松永英機 来歴

松永英機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 13:37 UTC 版)

来歴

大阪商業大学サッカー部時代は全日本大学選手権2連覇を果たした。卒業後は[要出典]松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)でプレー。

引退後は松下電器およびプロ化したG大阪や、ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)で指導者経験を積む。またこの間、日本サッカー協会の強化委員スタッフに加わり、アトランタ五輪ではスカウティングスタッフとして対戦相手チームを分析。マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル戦での勝利に貢献した。

1999年にはV川崎で初めてJリーグチームの監督を務める(ただし実質的な指揮は総監督の李国秀が執っていた。これは翌年の張外龍監督のときも同じである)。辞任後は清水エスパルスのコーチを務めた。

2003年大木武の後を受けてヴァンフォーレ甲府の監督に就任。資金も戦力も決して豊富とは言えない甲府で2003年と2004年前半には松永自ら招いた元日本代表FW小倉隆史の獲得も功を奏し、昇格争いを繰り広げ観客動員も増加した。ファウルを犯さない組織的な守備をベースとしながらも、小倉や藤田健といった創造性の高い選手の能力を生かしたボールポゼッションからサイドチェンジ、サイドアタックを基調とした戦術は高い評価を受け、当時のサッカー誌上でも取り上げられた[要出典]。2004年後半は得点源であったブラジル人FWバロンの途中退団や主力選手の故障により失速、同年限りで退団するものの、観客動員増からクラブの財政が好転し新外国人バレーの獲得が可能となり、松永の後を引き継ぎ再就任となった大木監督により甲府は翌2005年にJ1昇格を果たしている。

2005年よりヴィッセル神戸の監督に就任したが、第6節まで1勝3敗2分けの17位と出遅れたことを理由に4月19日付で解任された。

2006年には佐川印刷SCの監督に就任したが、前期は成績が低迷。後期は成績が上向きになってきたが、8月31日に辞任した。

2007年FC岐阜でヘッドコーチ、2007年6月21日から2009年12月13日まで岐阜の監督を務めた。

2010年名古屋グランパスエイトの育成普及部テクニカルディレクターに就任した。

2013年、岐阜の統括副本部長兼チーム統括部長に就任した[1]

2016年2月よりJリーグ育成ダイレクターに就任した[2]

2019年2月から横浜F・マリノスのアカデミーダイレクターに就任した。

2021年2月4日、横浜F・マリノスと業務提携を行っている関東学院大学サッカー部の総監督に就任[3]。6月10日、横浜F・マリノスのアンジェ・ポステコグルーの監督退任を受け、暫定監督に就任。


  1. ^ 松永英機氏、統括副本部長兼チーム統括部長就任のお知らせ”. FC岐阜 (2013年1月10日). 2013年1月10日閲覧。
  2. ^ 育成ダイレクター就任のお知らせ』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2016年1月29日http://www.jleague.jp/release/post-41450/2016年12月26日閲覧 
  3. ^ 2021年 お知らせ』(プレスリリース)関東学院大学体育部連合会サッカー部、2021年2月4日http://kgufootballclub.zombie.jp/sub5.html2021年9月9日閲覧 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松永英機」の関連用語

松永英機のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松永英機のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松永英機 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS