東海村JCO臨界事故
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事故被曝者
この事故では、3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント(GyEq)[注 4]以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員は急性放射線症候群になり、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下「放医研」)へ救急搬送され、うち2名は造血幹細胞移植の関係から、東京大学医学部附属病院(東大病院)、および東京大学医科学研究所付属病院(東大医科研病院)に転院し、集中治療室での医療が施された。3名の治療経過や、本事故において被曝した者の経過は、それぞれ以下の通り。
被曝者 | 被曝線量 | 負傷詳細 | 結果 |
---|---|---|---|
作業員A(35歳) | 16 - 20 GyEq | 高線量被曝及び染色体破壊、一時心臓停止による多臓器不全 | 1999年12月21日・23時21分死亡 |
作業員B(39歳) | 6.0 - 10 GyEq | 高線量被曝及び染色体破壊、MRSA感染による肺炎、多臓器不全 | 2000年4月27日・7時25分死亡 |
作業員C(54歳) | 1 - 4.5 GyEq | 高線量被曝 | 治療により回復、1999年12月20日退院 |
- 16 - 20 GyEq(推定16 - 20シーベルト以上[2])の放射線被曝をした[15]作業員A(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により、それにより新たな細胞が生成できない状態となる。まず白血球が低下し易感染状態になったためICUから無菌病室に移動し、実妹から提供された造血幹細胞の移植が行われた。幹細胞移植は成功し白血球の増加が見られたが、時間経過とともに定着した妹由来の造血細胞にも染色体異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。1日3リットルの下痢が始まりやがて血便となり大量の輸血が行われた。放射線障害により皮膚が形成されなくなり全身の皮膚が剥離。体液の漏出が止まらなくなり、毎日全身を覆うガーゼの交換を半日かけて行う状態となった。呼吸困難も出現し気管挿管の上、人工呼吸器に接続された。麻薬を使った疼痛管理が行われたが苦痛を取り除くには十分ではなかった。事故から59日後の11月27日心停止。蘇生措置により約1時間後に心拍再開したものの、長時間の心停止によるダメージから脳および各臓器の機能が著しく低下した。事故から83日後の1999年(平成11年)12月21日23時21分、放射線障害による多臓器不全で亡くなった。
- 6.0 - 10 GyEq(推定6 - 10シーベルト[2])の放射線被曝をした[15]作業員B(事故当時39歳、死亡時40歳)も作業員Aと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血幹細胞の移植が一定の成果をあげたことにより、一時は警察の事情聴取に応じるまでに回復した。しかし放射線障害により徐々に容態が悪化、さらにMRSA感染による肺炎を併発し[16]、事故から211日後の2000年(平成12年)4月27日7時25分、放射線障害による多臓器不全により死亡した。
- 作業員C(当時54歳)は、臨界に至ったときに、上記2人よりやや距離が離れた場所にいたために被爆量は推定1 - 4.5 GyEqとされた[15]。それでも一時白血球数はゼロになった。だが放医研の無菌病室においてG-CSF製剤などによる治療を受け回復。12月20日に放医研を退院した。
- 臨界状態を収束させるため、作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える計画被曝をしたほか、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆けつけた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は、最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名であった[2]。さらに周辺住民207名への中性子線などの被曝も起こった[15]。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名であった[2]。被曝者の総数は、事故調査委員会(委員長:吉川弘之・日本学術会議会長)で認定されただけで667名(2000年4月)であった。
注釈
出典
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- ^ a b c d e 原子力安全委員会 ウラン加工工場臨界事故調査委員会 (1999年11月5日). “JCOにおける臨界事故の経緯について”. 緊急提言・中間報告. 文部科学省. 2015年3月10日閲覧。
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- ^ 篠原理人「『春の事件』スクープ7連発ッ 東海村事故被曝社員『本当の病状』」『週刊現代』、講談社、2000年5月6日、55頁、NAID 40001690344。
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- ^ “「JCO臨界事故で体調不良に。東海村に恨みあった」と逮捕の53歳男供述 日立市役所・東海村役場車突入事件”. FNNプライムオンライン (2023年12月7日). 2023年12月7日閲覧。
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