杉浦兼松 杉浦兼松の概要

杉浦兼松

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/20 07:41 UTC 版)

アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターでの化学療法の分野で働いた。

来歴

愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父をで失い、徒弟奉公にでるが、1903年明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。1917年大正6年)にメモリアル病院(後にスローン・ケタリングがんセンターとなる)に研究者として働いた。ユーイング(James Ewing)のもとで、当時、癌の療法としては主流でなかった化学療法の研究を始め、純系動物によるがんの継代移植技術で移植可能な癌を常備して、薬品によるがん縮小効果を見る研究を行った。第二次世界大戦後、癌の化学療法が脚光をあびると、スローン・ケタリング研究所は癌の化学療法のメッカとなった[1]

1972年昭和47年)にLaetrileの抗癌性についての杉浦の評価が適当であったかどうかの論議を呼んだ。

参考文献


  1. ^ 『がんというミステリー』宮田親平(著)文春新書2005年


「杉浦兼松」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「杉浦兼松」の関連用語

杉浦兼松のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



杉浦兼松のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの杉浦兼松 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS