悟り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 16:19 UTC 版)
原語・語義・類語
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インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された[3][要検証 ]。
- 正覚
- 語頭に"無上"や"等"など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經に1万5700余みられるが[4]、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている[5][要ページ番号][要検証 ]。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、初転法輪にかかわる意味から成仏に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ[5]。
- 開悟
- 日本語で悟りを開く意の「開悟」と漢訳されたサンスクリットは数種類ある[6][注釈 2]。いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語で、prativibudda の場合、開悟のほかにも「夢覚已」「従睡寤」と漢訳されることがあった[7]。
- 悟
- 単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である[8][要ページ番号][要検証 ]。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースは珍しくなく、「知」「解」「一致」など数種類の漢訳語を持つ anubodha, saṃvid, saṃjñā などの名詞は「悟」と訳されることもあった[8]。
- 菩提
- bodhi の漢訳で、「覚」「道」「得道」などと漢訳される場合もある[9]。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶ[10][要検証 ]。
- 阿耨多羅三藐三菩提
- 大乗経典で多用され[11]、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで[12]、すでに部派仏典に見られる述語である[13]。
- モークシャ
- モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国と地獄を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。
注釈
- ^ 菩提は梵: bodhiの音写[1]。
- ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。
- ^ 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として、曹洞宗では最も重要な年中行事の一つとなっている[16]。
- ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。[21]
- ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。[22]
- ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのであるとされる。[30]
- ^ ゴータマの悟りに関して、宇宙には意識の働く宇宙と物質の宇宙の二つの世界があるとする見方に基づき、「自ら(自灯明)」という意識の大きさは、もともと宇宙の大きさと等しいものであるとする見解がある。煩悩から解脱するとき、意識の大きさは、その本来の大きさである無限大になるとされているようだ。アートマンは、人間の煩悩との関係から、「われという観念」(偽我)として存在しているかのように見える、という見解もある。[31]
- ^ ゴータマは無余涅槃を排斥したとされる。[32]
- ^ 悟りというものを宇宙原理たるブラフマンと真の自己との合一という観点から見た場合、小宇宙的概念としての内的世界(真人としての我)が、大宇宙の根本原理と合一すると言い換えることもできそうである。
- ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[37]
- ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
- ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P105 中村元
- ^ そのことについて見た場合、第三の明知と、過去現在未来にわたる阿羅漢について、心に関して、心でもって知る、という智慧には、共通する部分があると言える。
- ^ カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められた開悟者とされたが、対機説法においては、対機した幾人かの比丘尼が還俗したりしたことが記されており、慈悲という面では、及ばないところがあったようである。 [43]
- ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点があるとされている。[53]
- ^ 福音書において、「十字架」という語には、贖罪論的な意味はなく、自力的な人生の重荷や使命といった意味を持つ言葉としてしか使われていないとされている。[54]そうしたことから、福音書の中には、「自力救済的な教え」と、「他力救済的な教え」とが混在していると言える。そして、キリスト教が国家宗教としての位置を確立するころには、「他力救済的な教え」以外のものを異端として排斥するようになっていった。
- ^ 自分の霊的な本質を認識していることを指しているとされている[57]
- ^ マタイ5:48にも、同じような言葉が使われている。
- ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神[59]
- ^ 内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。[66]
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年10月、第二版、370-371頁。
- ^ 新村出(編)『広辞苑』岩波書店、1986年10月、第三版、972頁。
- ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁。
- ^ 『正覚』 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
- ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
- ^ 『広説佛教語大辞典』 中村元著 (東京書籍) 上巻 「開悟」 180-181頁。
- ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) prativibudda 840頁。
- ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
- ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。
- ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
- ^ 阿耨多羅三藐三菩提 がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
- ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。
- ^ 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
- ^ 『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: 釈迦族の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
- ^ 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
- ^ 藤本晃 (2015年11月). 悟りの四つのステージ. サンガ[要ページ番号]
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
- ^ 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P291訳注第五章注150 中村元
- ^ 原始仏典Ⅱ相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
- ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
- ^ 岩波仏教辞典第二版P371
- ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
- ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P118 中村元
- ^ 中村元著『佛教語大辞典』より) 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
- ^ 『人間釈迦 1』高橋信次著 三宝出版 1973年 P172
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- ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P144 中村元
- ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
- ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
- ^ 『心の原点』高橋信次 三宝出版 1973年 P26
- ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
- ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P205注29 中村元
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P95 中村元
- ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P616注24 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
- ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P396解説 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
- ^ 『原始仏典II 相応部経典第2巻』 第5篇P616注24 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
- ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
- ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元
- ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第1篇P600注88 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
- ^ 『尼僧の告白』1982年岩波書店P36中村元
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- ^ 渡辺研二 2006.
- ^ 鈴木大拙全集第十巻[要追加記述]
- ^ マタイ福音書15:16
- ^ マルコ福音書7-21
- ^ 『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、P31
- ^ 『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、補注用語解説P21
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 岩波書店、1998年、 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P380
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』用語解説 P5
- ^ マリア福音書参照
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P57
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳
- ^ 闘技者トマスの書参照
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』トマス福音書1989年 荒井献ほか
- ^ トマス福音書参照
- ^ イスラム史におけるスーフィズムの意義について(Webpage archive、2012年8月5日) - http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html
- ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年P212
- ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著(岩波書店 1991年P218
「悟り」の続きの解説一覧
- 1 悟りとは
- 2 悟りの概要
- 3 原語・語義・類語
- 4 各宗教における悟り
- 5 脚注
悟りと同じ種類の言葉
- >> 「悟り」を含む用語の索引
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