悟り
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グノーシス思想と悟り
古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた[57]。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる[58]。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる[注 5]。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、絶対的一神教(三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。
グノーシス思想(ギリシア)と悟り
グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味している[57]ギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる[注 6]。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。
古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる[注 7]。
広義な意味でのグノーシス思想と悟り
啓示宗教の項目を参照
グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある[59]。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。
汎神論的宗教(遍在神的) における神の認識の仕方と悟り
古代思想としてのグノーシスと悟り
- プラトンの転生輪廻の記憶と古代文明
- 太陽信仰におけるエジプト文明とゴータマ・ブッダ(宗教者)における太陽信仰。
- 最古は、ゴータマ・ブッダによって伝承された、7回の宇宙期における、それぞれの文明の中で悟った賢者による「諸仏の教え」であるとされる。また、初期の仏典に現れたとされる「世界の主」は、諸仏のきまりとして、「人格的な面を持つ万古不滅の理法」の導きに頼って生きることを啓示したとされる。
- リグ・ヴェーダの賛歌は、その最古のものは紀元前1500年ころより作られ、前1200年頃に形成されたとされる[60]。インドの西北方から攻め入ったアーリア人によって作られたとされている。
ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している[注 8]。
初期の仏教における神の認識の仕方と悟り
ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られている[注 9]ので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。
ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた[61]。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法[62]として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている[63][注 10]。
初期の仏教においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。
唯一神教(汎神論的)による神の認識の仕方と悟り
唯一神を参照
ギリシア思想・ユダヤ教の思想における神の認識の仕方と悟り
中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある[64]。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。
西洋古代末期におけるグノーシスと悟り
『エウグノストス』における神の認識の仕方と悟り
ナグ・ハマディ文書の中に、『エウグノストス』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる[注 11][注 12]。
イエスの思想を起点とした神の認識の仕方と悟り
ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている[65]。
トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)[66][注 13]。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。
イエスの思想と悟り
唯一神#イエス(宗教者)を参照
77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる[67]。イエスは一なる神を信じていた。
98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている[68]。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。 荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。
「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。
四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている[69]。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる[70] [注 14]。
トマスと悟り
トマスによる福音書を参照
マリアと悟り
マリアによる福音書を参照
シャーマニズムにおける啓示宗教と悟り
広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。
万古不滅の法と絶対的一神教の関係
絶対的一神教を参照
キリスト教と悟り
キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である[注 15]。
367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている[71]。
ユダヤ教と悟り
「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった[72]。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある[注 16]。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。
タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている[注 17]。
イスラム教と悟り
唯一神を参照
注釈
- ^ 菩提は梵: bodhiの音写[1]。
- ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。
- ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[15]
- ^ 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蝋月(12月)8日は、今日でも降魔成道会として、曹洞宗では最も重要な年中行事の一つとなっている[18]。
- ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点があるとされている。[26]
- ^ 福音書において、「十字架」という語には、贖罪論的な意味はなく、自力的な人生の重荷や使命といった意味を持つ言葉としてしか使われていないとされている。[27]そうしたことから、福音書の中には、「自力救済的な教え」と、「他力救済的な教え」とが混在していると言える。そして、キリスト教が国家宗教としての位置を確立するころには、「他力救済的な教え」以外のものを異端として排斥するようになっていった。
- ^ 自分の霊的な本質を認識していることを指しているとされている[30]
- ^ マタイ5:48にも、同じような言葉が使われている。
- ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神[32]
- ^ 内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。[39]
- ^ 初期仏教の経典の中には、サーリプッタが解脱をしたときに、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる。(出典『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳)
出典
- ^ しかし、初期の啓示とされるものについても、ヒラー山にて下されたものはごくわずかであり、2年ほど通信は途絶えたとされている。その後は、当時の偶像崇拝のメッカであった神殿にて再開されたと言われている。当時の神殿は、人身御供も行われるほど、霊的に乱れた場所であり、その後の神の啓示の神聖さに大きな影響を与えたと考えられる。詳しくはナスフを参照のこと。
- ^ 老子が「道(タオ)」と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
- ^ 欲望に動かされずに道徳の極致にいたるというのは、初期仏教における「諸仏の教え」に通ずるものであると見ることができる。
- ^ また、荘子において、「明」によって照らすとする思想の中には、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであるとする場合がある。この場合の明知は、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる(出典『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎
- ^ 宗教的な直感的認識として限定的に見た場合のグノーシスは、超感覚的な神との融合の体験を可能にする「神秘的直観」に関する知識を指しているとされる。神秘的直観は、霊知とも解釈される。
- ^ グノーシスという言葉は、宗教用語としては、広義に過ぎるため、一般的には西洋古代末期における宗教思想の一つに限定して用いられている。広義における「認識」や、「神の認識」は、宗教用語としても使われていない。神の認識の仕方としてのグノーシスは、グノーシス主義と同一の言葉として扱われることが多い。
- ^ ギリシアの古代の思想は、宗教と哲学とを分けて考えてはいなかった。また、古代ギリシャの宗教としてのオルペウス教は、神話を啓示の位置にもってきている。
- ^ バラモン教とは、バフラマーの教えという意味もあり、宇宙の真理を悟ることとバフラマーとは、関係があると考えられていた。
- ^ 原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた。(出典 原始仏典II 相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)
- ^ 初期の仏教においても、神の存在と、人間が肉体と霊体で構成されていること、などが言われている。そのため、人間の直感を用いて宇宙の神秘的な真理と倫理を体得するという点においては、不連続なつながりがあると言うことができる。
- ^ キリスト教グノーシス主義者によって編集されている同名の他の一冊を度外視して考えると、古典的な古代ギリシャ思想であると見ることができる。(出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説エウグノストス P503 小林稔)
- ^ キリスト教的グノーシス主義とされるものは、自己の霊的な本質の認識と神についての認識に到達することを求める思想である。
- ^ 初期の仏教の経文なども、短い詩句などは、ブッダの直伝にまで至ることができるものが多い。
- ^ それとは異なり、「座して全存在を支配している人格神」というのは、旧約聖書のイザヤ書(14章)や、新約聖書の使徒行伝やヨハネによる黙示録に出てくる「神の座に座す唯一神」に該当するといえる。座して全存在を支配している人格神について、「唯一の神」の「唯」の字をわざわざ省くことによって、イエスはこれを否定している、と見ることができる。
- ^ しかしながら、一部の修道院や、一部の聖人とされる者や、一部の実践者などには、悟りに近いと思われる人がいると見ることができる。
- ^ 拝一神教は、特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で、絶対的一神教(唯一神教)とは異なっている。(出典岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869 拝一神教の項目 山我哲雄)
- ^ どの部分に編集の手が加わっているかははっきりしないので、絶対的一神教を強調している部分は、啓示的ではない、と解釈することができる。
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- ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
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- ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
- ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。
- ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
- ^ 阿耨多羅三藐三菩提 がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
- ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。
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- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
- ^ 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
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- ^ マリア福音書参照
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- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳
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