常照寺 (京都市) 歴史

常照寺 (京都市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 09:20 UTC 版)

歴史

江戸時代芸術家である本阿弥光悦は、慶長年間(1596年 - 1615年)の初年には現在の光悦寺の地に別宅を構えていたが、元和元年(1615年)に徳川家康により付近一帯の土地を与えられた。『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な地であったという。

翌、元和2年(1616年)に光悦とその養子・光瑳により「法華の鎮所」がこの地に建立された。これが当寺の起源である[1]

元和5年(1619年)になり本格的にこの地に移り住んだ光悦は、一族や様々な工芸の職人とその家族ら100人以上を集住させて一大芸術村、いわゆる光悦村を作り上げた。また自らの屋敷の近くに法華題目堂を建立している。その法華題目堂は光悦の死後に光悦寺となっている。

寛永4年(1627年)に光瑳の招きによって日蓮宗の中興の祖日乾が「法華の鎮所」に入ると、日乾はこれを正式に寺院として整備して寂光山常照寺と名付け、学寮である檀林(鷹峰檀林)を開いた。後の最盛期には大小30余りの堂宇が建ち並び、学僧200余人が学んでいたと記録が残る。その頃には常照講寺とも呼ばれるようになっていた。

寛永5年(1628年)には日乾に帰依していた遊女の2代目吉野太夫により、山門(吉野門)が寄進されている。また、当寺には2代目吉野太夫の墓もあることから、当寺は2代目吉野太夫ゆかりの寺院となっている。

1872年明治5年)に学制発布により鷹峰檀林が廃止されると、往年の賑やかさは失われてしまった。

境内

  • 本堂 - 創建時は講堂であった。扁額「旃檀林」は日潮の筆。
  • 庫裏
  • 比翼塚 - 2代目吉野太夫と夫である豪商の灰屋紹益の供養塔。1971年昭和46年)に片岡仁左衛門により建立された。
  • 開山廟 - 日乾の墓。
  • 2代目吉野太夫の墓
  • 茶室「聚楽亭」
  • 茶室「遺芳庵」 - 2代目吉野太夫を偲んで夫の灰屋紹益が寄進したもの。壁にある大きな円窓は2代目吉野太夫が好んだことから吉野窓という。円の一番下の部分は切り取られており、完全な円にはならないように作られている。
  • 常富大菩薩堂 - 鎮守社。能勢妙見山で修行して常富大菩薩となった白狐を祀る。
  • 宝蔵
  • 鬼子母尊神堂
  • 妙法龍神堂
  • 帯塚 - 1969年(昭和44年)に伊豆蔵福治郎が発起人となって浄財を集め、建てられたもの。徳島県吉野川産の自然石でできており、日本唯一の帯を供養する塚である。また、鷹峰三山を表している。
  • 庭園 - 中根金作による作庭。
  • 山門(吉野門) - 寛永5年(1628年)に2代目吉野太夫によって寄進された朱塗りの山門。また2代目吉野太夫は下京区蓮久寺にも朱塗りの山門を寄進している。

交通アクセス


  1. ^ 本阿弥行状記


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