居作昌果 エピソード

居作昌果

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 06:50 UTC 版)

エピソード

番組宣伝課時代、当時TBS系で放送されていた『てなもんや三度笠』(ABC)のプロデューサー・澤田隆治(沢田隆治)にテレビ記者会賞(1965年、第2回テレビ記者会賞個人賞)を取らせるため半年程放送記者クラブの面々を口説き落として実際にその年に受賞させた事を後年自著で明かしている[22]

1969年、それまで低視聴率に苦しんでいたTBS土曜20時枠を立て直すためにザ・ドリフターズをメインに据えた新番組を立ち上げようと、顔合わせと説得を兼ねてドリフの面々と赤坂の寿司屋で会食を行った。しかし、その場でリーダーのいかりや長介が、強力な裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の前に敗北するのではないかと消極的な態度を示した。それを受け居作は「そりゃあ、たしかに55号とドリフじゃあ、今は月とスッポンかも知れない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」と発言し、それを聞いたいかりやは逆に見返してやろうと奮起し新番組出演を受諾。「全員集合」の開始に至った[23]

『8時だョ!全員集合』プロデューサー当時、クレーム処理を一手に引き受けていた際、「食べ物を粗末にする」コントがあるとの理由から日本PTA全国協議会から低俗番組と槍玉に挙げられていた。居作はPTAの関係者と応対した際には自身の感想であるが、あまりにも見下したような言動に激昂。「ドラマだって食べ物を粗末にするシーンがあるじゃないか!ドラマだったら許されるといいたいのか!」と喝破した。居作によると、当時ドラマでは一例として病気の母親のためにスイカを丸々一個買って持って帰ろうとしていたときに運悪くイジメっ子達に出くわし、そのイジメっ子にせっかく買ったスイカを取り上げられて割られてしまうという、コントの世界では低俗とされるシーンが数多く放送されていた。こういう現実を見ているからこそ居作は言い返したわけだが、言い返されたPTAの関係者はモゴモゴして二の句が継げなかったという。

TBS在籍時代、ドリフ以外にも同い年で早稲田大学の同期でもあった大橋巨泉の担当として公私共に交流があった。『クイズダービー』を司会の巨泉の発案から共にプロデューサーとして立ち上げたことで知られる。1976年新春の番組開始当初、後年知られるものよりも複雑なルールが災いし最低4.4%という低視聴率で、上層部から再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーのロート製薬側の意向もあり存続し、後年知られるルールに単純化したところ秋頃には視聴率は20%を超え、TBSを代表する看板番組となった。同年暮れの打ち上げ会において、居作は「番組があたることはいいですな。ついこの前まで"スポンサーを替えても番組を変える"といってた人からもおホメの言葉をいただけるんですから」と打ち切り勧告をしていた営業部長、編成部長、制作部長に毒づき、慌てて彼らはその場から姿を消したという。巨泉は「おい、あんなこと言っていいのかい?」と心配したが、居作は「なあに、あのくらい言ってちょうどいいのさ」と平気な顔で返したという[24]

系列局の毎日放送が全国ネットの制作番組『世界まるごとHOWマッチ』の放送時間を22時から20時に昇格したいと司会の巨泉に打診した際、巨泉は「ゴールデンタイムでは番組に制約ができる。どうしてもと言うのなら、俺以外の司会者でやってくれ」と頑固反対し、当時居を構えていた伊東に帰ってしまったときも、キー局であるTBSの制作局長だった居作が巨泉の自宅に出向き説得に当たり、番組を22時台と同じペースでやってもよいとする条件と、巨泉主催のゴルフトーナメントのスポンサーをMBSが引き受けてもよいという条件で納得させた。巨泉は自著で「見事なネゴシエイターぶりであった」と回想している[24]

景山民夫の小説作品『トラブル・バスター』の登場人物である田所局長のモデルとされている[25]

死去の際はTBS系『ブロードキャスター』で取りあげられた。また、2005年4月13日に行われた告別式には加藤茶・仲本・高木ブーが参列した。


注釈

  1. ^ 国立国会図書館のデータベースにおける個人著者標目より、読み仮名(片仮名表記)について「イズクリ ヨシミ」と表記。
  2. ^ 会社法人としては現在のTBSホールディングス。放送局としては現在のTBSテレビTBSラジオ
  3. ^ 発行月日は、カバーを参照。

出典

  1. ^ a b c d e 自著『8時だョ!全員集合伝説』奥付プロフィールより。
  2. ^ a b c 外部リンク(KINENOTE)を参照。
  3. ^ a b c d e f g h 外部リンク(訃報)を参照。
  4. ^ 自著『8時だョ!全員集合伝説』奥付プロフィールより、「東京生まれ」と明記。
  5. ^ 外部リンク(訃報…nikkansports.com)では「早大文学部卒業」と記述。
  6. ^ 自著『8時だョ!全員集合伝説』より、奥付プロフィールでは「早稲田大学英文科卒業」、P180では「早稲田大学英文科の学士である」と記述。
  7. ^ 『8時だョ!全員集合伝説』P224-239「三人だけのドリフ」より(書類送検については、P236を参照)。
  8. ^ 『TBS50年史』資料編および同DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録の人事組織図と併記された、1981年7月15日 - 1986年4月1日の主な組織変更をまとめた年表を参照。
  9. ^ 『8時だョ!全員集合伝説』P241-242
  10. ^ a b 『TBS50年史』資料編P46。
  11. ^ 『TBS50年史』資料編P54より、「(株)タイクス」の情報を参照。
  12. ^ 『all TBS 紳士・淑女録』第5回より、「出向(社長室付人事労政局付)の巻」(P1-7=原資料:P22-28)の中で、タイクスの代表取締役社長として居作昌果が紹介されている(P6=原資料:P27)。
  13. ^ Works - T・ZONEのウェブサイト より。
  14. ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』より、『歌まね読本』のデータカードを参照(制作としてクレジット)。
  15. ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』より、『8時だョ!出発進行』のデータカードを参照(制作としてクレジット)。
  16. ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』より、『せんみつ・湯原ドット30』のデータカードを参照(プロデューサーとしてクレジット)。
  17. ^ 自著『8時だョ!全員集合伝説』より、P152-153および奥付プロフィールを参照(タイトルは「せんみつ湯原のドット30!」と表記)。
  18. ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』より、『新せんみつ・湯原ドット30』のデータカードを参照(プロデューサーとしてクレジット)。
  19. ^ a b c 外部リンク(テレビドラマデータベース)を参照。
  20. ^ 自著『8時だョ!全員集合伝説』より、P152-153および奥付プロフィールを参照(P152-153でのタイトル表記は「飛べ! 孫悟空」)。
  21. ^ 自著『8時だョ!全員集合伝説』より、P152-153および奥付プロフィールを参照(タイトルは「ザ・チャンス」と表記)。
  22. ^ 『8時だョ!全員集合伝説』P21-27「エノケンに口答え」より、P24-25の記述を参照。
  23. ^ 『8時だョ!全員集合伝説』P42-45「月とスッポン事件」より参照。
  24. ^ a b 『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』
  25. ^ 谷啓+景山民夫対談「テレビが輝いていたころ」(講談社『IN POCKET』1991年6月号)


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