小川祐忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 05:18 UTC 版)
小川 祐忠(おがわ すけただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊予国分城主。通称は佐平次、孫一郎。官位は土佐守、左近太夫。別名で小川 宗氏[1](おがわ むねうじ)とも言う。
注釈
- ^ a b c 長男または次男という。彦根藩の筋奉行に小川半左衛門が提出した由緒書では、光氏が長男、良氏(祐滋)が次男、実乗が三男となっている。『國領系図』では、左馬介良氏が嫡子で壱岐守光氏を弟としている。しかし異母兄弟であるということならば、嫡出を先に書いたということかもしれない。
- ^ 次男または三男。出家して、石清水八幡宮社の瀧本坊の住持となった。
- ^ 孫三郎。国領宗久の子。永禄年間に布施山合戦において16歳で戦死した。
- ^ a b 小川土佐守(祐忠)の長男は千橘といって、関ヶ原で改易となった後に、萬屋の屋号を用い、「萬屋平右衛門」と名乗って、京都二条で米穀商や両替商、木楽屋などを営んで成功を収め、寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商となったという伝承がある。ただし、祐忠に「千橘」という名の子はおらず、光氏と良氏(祐滋)は共に慶長年間に病死したとされており、史料とも整合性がないので、商家の家伝として創られたものであろう。
- ^ 同書では下河辺氏を桓武平氏としているが、これは誤りで、藤原秀郷流。
- ^ 現在の滋賀県甲賀市信楽町小川にある県指定史跡。城山の頂上付近に築かれた山城で、小川鶴見城とも言う。
- ^ 現在の滋賀県東近江市小川町の市街地に城があったが、遺構などは残っておらず、史跡になっていない。
- ^ 諱は定武。出家して法名は乗淨。小川左近太夫の子という。
- ^ 浅井家臣の将・磯野員昌の父・員宗の養父にあたる磯野家当主。
- ^ 『信長公記』による[6]。
- ^ 豊臣秀長の大和入国に伴ったものならば天正13年か14年、豊臣秀保の死に伴う配置換えであれば文禄4年頃であろう。
- ^ 『國領系圖』では12万石とするが、『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門)が15万石とする以外、他にこれらを裏打ちする史料はないので、城主の変更のみで、石高は7万石のままだったのかもしれない。大橋金造は、12万石ではなく7万の誤りであろうとしている[8]。
- ^ 『上田軍記』では左馬允(祐滋のこと)とともに2,500の軍勢を率いたとされる。
- ^ 「祐忠言行不羈、荒暴粗厲、四民愁苦」[11]。
- ^ ただし『國領系圖』では土佐守には実子がいなかったとされて、三人とも養子とされる。
- ^ 『小川家譜』にある祐忠が相模国津久井郡若柳村で帰農したするのは、誤伝ないし俗伝。同家譜では清和源氏を名乗る。
出典
- ^ 『石清水社僧記』『國領系圖』などにある。
- ^ 太田亮『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』 1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1936年、862-863頁 。[注釈 5]
- ^ 太田亮『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』 4巻、国民社、1944年、3835-3836頁 。
- ^ & 大橋金造 1928, p.446.
- ^ 大橋金造 1928, p.447.
- ^ 大橋金造 1928, pp.451-452.
- ^ 『安土日記』。
- ^ a b 大橋金造 1928, p.453.
- ^ a b 谷口 1995, p.95
- ^ 大橋金造 1928, pp.454-455.
- ^ 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年 。
- ^ 大橋金造 1928, pp.455-456.
- ^ 二木謙一『関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日―』(中央公論社、1982年)207頁
- ^ 大橋金造 1928, p.445.
固有名詞の分類
- 小川祐忠のページへのリンク