小山昭晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 05:12 UTC 版)
来歴・人物
日大高では2年次の1977年に秋季関東大会県予選で準決勝へ進むが、武相高に惜敗。
1978年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団[2]。遠投120mの強肩で期待されたが、当時の大洋は福嶋久晃、辻恭彦など捕手層が厚く、なかなか出場機会に恵まれなかった。1985年10月に一軍初出場、初安打を放ち先発出場も経験するが、1987年オフに石川賢との2対1の交換トレードで堀井幹夫と共にロッテオリオンズへ移籍[2]。登録名を小山 昭吉(あきよし)に変更し、同年は袴田英利の控えながら6試合に先発マスクを被る。10月19日の対近鉄ダブルヘッダー第1試合では途中から出場すると9回表に鈴木貴久の安打で勝ち越し点を狙い、三塁を回った二塁走者の佐藤純一を挟殺プレーでタッチアウトにしている。
1989年オフに自由契約となり、1990年から大洋に復帰する[2]が、谷繁元信の教育係的存在で一軍出場は2試合に終わる。1992年引退[2]。
引退後も横浜に残り、育成バッテリーコーチコーチ補佐(1993年 - 1995年)→一軍バッテリーコーチ(1996年 - 1997年)→二軍バッテリーコーチ(1998年 - 1999年)→二軍バッテリーコーチ補佐(2000年)を歴任し、育成部時代は相川亮二を指導[3]。
退団後の2001年には相模原ホワイトイーグルス中学部監督に就任し、2002年には神奈川県大会優勝に導いた。
2005年11月14日白血病で死去。享年45。母校の日大高では現在、小山の横浜コーチ時代のユニホームが展示されている。
- ^ 週刊ベースボール 小山昭吉
- ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、231ページ
- ^ 【相川亮二のインサイドワーク】捕手歴5カ月で横浜入団 練習はルーキー1人に対してコーチ3人だった新人時代
固有名詞の分類
- 小山昭晴のページへのリンク