寇準 寇準の概要

寇準

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 03:07 UTC 版)

寇準

生涯

性格は剛直で知られ、『宋名臣言行録』には「寇準上殿、百僚股栗」(寇準が御殿に登ると部下たちはふるえあがる)という話が出ているほどである。

太平興国5年(980年)、進士に及第。同年の進士に王旦・向敏中・蘇易簡・張詠・晁迥・謝泌・馬亮など北宋初期の名臣と称される者が多い。

淳化5年(994年)には参知政事となり、真宗の即位後は工部刑部兵部で職を歴任する。景徳元年(1004年)には同中書門下平章事(宰相)の職に就く。

同年冬、契丹聖宗承天太后の親征により軍を南下させ河北の瀛洲などを包囲し、北宋の朝廷は狼狽し王欽若らが南遷を主張する中、寇準は真宗の親征を主張し、親征が実現。澶州で戦線は膠着状態になり澶淵の盟が結ばれる。

景徳2年(1005年)に中書侍朗と工部尚書を兼任する。景徳3年(1006年)に王欽若の讒言により罷免される。

天禧元年(1017年)に宰相に復職するも、天禧4年(1020年)、丁謂銭惟演らの讒言により宰相を追われ、雷州司戸参軍に左遷。任地で63歳で没した。1034年に名誉回復された。『宋史』列伝40に伝がある。嗣子はいなかったようである。

小説『楊家将演義』では、楊一族を助けて奸臣潘仁美を獄に下す忠臣として描かれている。




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