多段式空母
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航空機が高速化し離着陸距離が増大した第二次世界大戦以降は見られない。日本では改装前の「赤城」と「加賀」が有名である。
概要
空母の黎明期においては、各国海軍が空母そのものをどのように運用するか、どのような戦闘が行われるかを把握しきれておらず、艦容もその当時の用兵の考えかたを見ることができる。
世界初の計画時からの空母として完成した日本の「鳳翔」や、世界初の空母として着工したイギリスの「ハーミーズ」は飛行甲板が一段の全通式空母だったが、その後、多段式空母が生まれている。
空母の黎明期における先進国の一つであったイギリスでは、最初期の空母「フューリアス」(大型軽巡洋艦から改装)、「アーガス」(建造中の旅客船「コンテ・ロッソ」を改造、1918年9月に完成)、「イーグル」(建造中の戦艦「アルミランテ・コクレン」を改造、1920年に完成)の運用実験を重ねていた。
「アーガス」と「イーグル」の運用結果から、1921年、「フューリアス」は大改装をうけることとなった。このときの改装で、「フューリアス」は艦首部分に飛行甲板を設置、緩い傾斜を付けて発進用とし、この後ろに続く、一段高められた上段の飛行甲板は着艦用とした。これは二段式空母であった。「フューリアス」の姉妹艦といえる「グローリアス」、「カレイジャス」の2艦も、軽巡洋艦から空母に改装する際に「フューリアス」と同様の二段式空母に改装された。
日本もまた空母の先進国であり、「鳳翔」は新規に計画建造された空母としては史上最初(1922年12月)に完成した艦であった(着工は「ハーミーズ」が先行)。ただし未知の兵種を育てるにあたっては手探りの状況が続き、建艦、用法にも試行錯誤が行われた。
「赤城」と「加賀」は当初、それぞれ巡洋戦艦および戦艦として建造される予定であったが、ワシントン海軍軍縮条約の締結により空母への改装が決定された(「加賀」の改装に至る時系列詳細は「加賀」を参照)。このときの「赤城」の設計では、飛行甲板が三段になっていた。上段は着艦用、中段は偵察機、艦上戦闘機などの小型機の発進専用、下段は艦上攻撃機、艦上爆撃機など大型機の発進専用とされた。艦橋は上段の飛行甲板の前端下部にゴンドラのように取り付けられていた。さらに中段飛行甲板には、20cm主砲を連装で装備する砲塔が、並列に2基据えられた。加賀もまた赤城と同様の構造をもっていた。
「赤城」の20cm主砲は万が一、敵巡洋艦と遭遇した際にこれを追い払うためのものであった。当時はまだ航空機の航続力が短く、空母は敵艦隊に接近しなければならず十分な避退距離を取れなかったため、水上艦艇との砲戦もあり得る、と考えられたためである。アメリカ海軍の空母「レキシントン」、「サラトガ」もまた同様の建艦思想により、飛行甲板上にある艦橋の前後に背負い式に砲塔を備えている。
利点
全通式の空母は発艦と着艦を同じ甲板で行うため発艦と着艦が同時にできなかった。しかし多段式ならば、発艦と着艦を違う飛行甲板に受け持たせ、作業を同時に行うことができる。これによって連続攻撃が行える、と戦術的には考えられていた。またエレベーターを使わずに飛行甲板へそのまま引き出して使うこともできた。これは作業が容易で時間もかからない。三段式ならば二段目に砲を置くことができた。
1920年代の艦上機はすべて複葉機であり、発艦速度・着艦速度が非常に遅く、必要とする滑走距離も短かったことも多段式空母を生む素地であった。
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