和田野
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産業
- 大下倉醤油醸造所
- 1908年(明治41年)創業の醸造所。ブランドは「だいまるしょうゆ」。2011年(平成23年)10月30日と11月6日にはテレビ朝日系列のバラエティ番組『大改造!!劇的ビフォーアフター』に登場した[47][48]。作業場を縮小して醤油樽を収納庫にするなどの改装を行い、だいまるしょうゆカフェをオープンさせている。同年末には『「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2011』では大賞に輝いた[49]。2016年(平成28年)5月1日には同番組の2時間スペシャルにも登場した。
- 古与曾
- 和田野出身の郷土史家である芦田行雄の別宅を改装したコミュニティハウス[50]。
農業
国営農地の「弥栄町和田野団地」がある。造成面積29.4ヘクタール、営農面積21.0ヘクタール[51]。1989年(平成元年)から1992年(平成4年)にかけておもに造成され、1991年(平成3年)に営農が開始された[51]。ダイコン、カブ、サツマイモ、ニンニク、小菊などを栽培しており、かつては葉タバコも栽培していた[16]。1999年(平成11年)農地のうち水田の占める割合は4.8ヘクタール[52]。
丹後国営農地開発事業は、1983年(昭和58年)に経営の効率化と新規就農者への機会提供といった農業の構造的な改革をめざして、休耕田に加えて山林原野を開拓することに始まり、弥栄町はその開発事業の中核に位置付けられた。和田野団地は、その先駆けで開発された農地のひとつで、1994年(平成6年)に完成した[53]。
和田野を代表する農業としては、後述する機業の盛衰に伴い、かつては養蚕もさかんにおこなわれたが、1950年(昭和25年)には養蚕を行う農家がなくなり、葉タバコやチューリップを生産する農家が増加した[2]。
機業
かつて、和田野を象徴する地場産業として丹後ちりめんなどの機業があった。機屋には発電機などがあったことから、「上海みたいなところだ」と言われるほどであり、和田野に出稼ぎに来る労働者も多かった[2]。2017年(平成29年)には日本遺産に「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」が認定されており、構成文化財の「網野・弥栄の機屋の町並み」は和田野と網野町浅茂川が例に挙げられている[54]。
1893年(明治26年)には和田野に英昌組合(春雨織物工場)が創業した[22]。1927年(昭和2年)3月7日には北丹後地震が発生し、春雨工場から出火して女工ら18人が死去した[24]。震災後の1930年(昭和5年)には春雨工場に60馬力の動力用発電機が入り、1933年(昭和8年)にはドイツ製110馬力2気筒の発動機が入った[25]。同年の戸数は138戸、人口は1155人であり、丹後ちりめんの機業に携わる女工が多いという特色があった。
大正末期から昭和初期には養蚕業も普及し、取れた繭は地元の機屋に売られた[2]。1935年(昭和10年)時点の和田野で規模の大きな丹後ちりめん工場としては、120台の織機があり190人の工員がいた春雨工場、61台の織機があり74人の工員がいた新谷共立などがあった[55]。
- ちりめん工芸館
- 丹後ちりめんは白生地の生産が主であるが、「やさか工芸」は染色まで一貫して行うとともに、生産者の直接販売による大幅なコストダウンを達成した有限会社[56]。所在地は和田野584[57]。注文生産の着物を一般価格の半値で引き受けるため、遠方からの旅行客が注文に立ち寄る例も多い[56]。絵葉書やスカーフなどに加工した様々な丹後ちりめん小物とともに、地場産の赤米で染色したネクタイなど、特徴的な製品を扱う[56]。
織物事業所率の推移
和田野区に所在する事業所のうち、織物業の占める割合を示す。出典は「弥栄町織物実態調査」[58]。
1989年(平成元年) | 25.2% |
1991年(平成3年) | 23.6% |
1993年(平成5年) | 21.5% |
1995年(平成7年) | 19.4% |
1996年(平成8年) | 16.9% |
1999年(平成11年) | 13.1% |
2000年(平成12年) | 11.4% |
2001年(平成13年) | 9.4% |
- ^ “デジタルミュージアムK6大田南5号墳出土方格規矩四神鏡”. 京丹後市. 2022年10月10日閲覧。
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