和田野 交通

和田野

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/15 04:38 UTC 版)

交通

1970年(昭和45年)、和田野区の田を横切る町道を新設し、竹野川に弥栄大橋を架ける計画が決定した。和田野区は減反と農作業の非効率化、洪水時に水を遮るおそれなどから当初町道新設に反対したが、全町的な立場から容認せざるをえなくなり、区長が交代してこれを認めた[59]。新たな町道は「和田野バイパス」として、昭和50年代、地域産業振興と和田野区内の交通混雑の緩和を目的に、京都府が建設を進め完成した[60]。竹野川の堤防沿いに、機業センター前から弥栄大橋のたもとまで新たに開通したもので[38]、総延長は1,217メートル、幅員7.5メートル、車道6メートルを備えた[60]

あわせて峰山町矢田から和田野橋までの約2キロメートルの舗装工事が1980年(昭和55年)に完成し、さらに和田野橋から弥栄大橋までの1.2キロメートルの道路工事が同年完成した[61]。1929年(昭和4年)に架けられた和田野橋はこのバイパス工事に伴って改修工事の対象となり[38]、1983年(昭和58年)に新和田野大橋が完成。一帯は弥栄町の交通の要衝となっている[61]

1990年代には、和田野バイパスの幅員を6〜7メートルから13メートル拡幅する計画がすすみ[62]、「丹後七姫ロマンス道路」と命名された[63]

施設

  • 和田野公民館
  • 弥栄駐在所
  • 京丹後市商工会弥栄支所

名所・旧跡

大田南古墳群
大田南古墳群
竹野川流域は野田川流域とともに丹後の文化的中心地だったとされ、古代遺跡が多数発見されている[64]。和田野と峰山町の境には大田南古墳群があり、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけて発掘調査が行われた[64]
  • 大田南5号墳 - 古墳時代前期の4世紀に築造された方墳である[64]。石棺からは青龍3年(235年)の銘が入った直径17.4センチメートル、重さ570グラムの「方格規矩四神鏡」が発見されており、1996年(平成8年)6月27日には重要文化財に指定された[64]。この鏡の由来は定かではないが、発見は新聞やテレビなどでトップニュースとして扱われ、「邪馬台国論争に新たな一石」などと報じられた[64]
  • 大田南2号墳 - 古墳時代前期の4世紀に築造された古墳である[64]。「画文帯環状乳神獣鏡」、鉄剣、土器などが発見されており、「画文帯環状乳神獣鏡」は日本国内では初の出土例である[65]後漢時代(2世紀後半)に中国の四川地域で製作されたと推定されている[65]。1996年(平成8年)3月15日には京都府指定文化財に指定された[66]
  • 大田南6号墳 - 古墳時代前期後半頃に築造された、直径28.5メートルの円墳である[64]。墳頂部の平坦面に墓穴があり、木棺から石製腕輪、石釧、鉄製品が出土した[64]
太田2号墳
直径30メートルの大型円墳[67]。1969年(昭和44年)に発掘調査が行われた[67]。墳頂部からは木棺が検出され、墳丘裾には円筒埴輪が巡っていた[67]須恵器杯の間から勾玉・ガラス玉・管玉・切子玉が検出され、墳丘上からは子持脚付有蓋壺が出土した[67]
坂野丘遺跡
春日神社
和田野の氏神。旧名は椙森神社。主祭神は天児屋根命であり、近世に再建されたとされる本殿は覆屋の中にある[68]
愛宕神社
祭神は迦具津智命。祭礼は毎年7月24日。
西方寺
曹洞宗の寺院。本尊は阿弥陀如来承応3年(1654年)に真言宗から曹洞宗に改宗し、寛文9年(1669年)に現在地に移った[16]天明8年(1788年)には現在の本堂が建築された[69]。1942年(昭和17年)には金属供出によって梵鐘が強制的に供出されたが[26]、1966年(昭和41年)には梵鐘が再興された[30]。境内には1927年(昭和2年)に起こった北丹後地震の「北丹震災供養塔」があり、春雨工場の出火で死去した18人など、計35人の戒名が刻まれている[24]
和田野城趾
西方寺の裏山、愛宕山にある城址で三層からなる[70]。弥栄町吉野、溝谷、深田などを一望する[71]縁城寺の過去帳の大永5年の記録に「和田野大和守」の名があり、この城の城主とみられる[70]
竹野川改修紀念碑
和田野橋下流の竹野川の改修工事、竹野川支流の溝谷川の改修工事が完成した際の記念碑[72]。1913年(大正2年)9月に建立された[72]。京丹後市商工会弥栄支所敷地内にある。
井堰改築碑
竹野川の改修工事と同時に井堰を近代化した際の記念碑[72]。1924年(大正13年)に建立された。

著名な出身者

  • 芦田行雄 - 郷土史家。和田野にある芦田の別宅はコミュニティハウス「古与曾」となっている。

  1. ^ デジタルミュージアムK6大田南5号墳出土方格規矩四神鏡”. 京丹後市. 2022年10月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市役所、2014年、307-310頁。 
  3. ^ a b 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、22頁。 
  4. ^ a b 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、678頁。 
  5. ^ a b 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、105頁。 
  6. ^ 萩原勉『弥栄・和田野 小字名の語源・考』萩原勉、1999年8月13日、30-31頁。 
  7. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、699頁。 
  8. ^ a b c 『写真アルバム舞鶴・宮津・丹後の昭和』樹林舎、2021年、20頁。 
  9. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、686頁。 
  10. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、699-700頁。 
  11. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、586頁。 
  12. ^ 『昭和ひとけたの頃』萩原勉、1982年3月25日、19-20頁。 
  13. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、700頁。 
  14. ^ 『時を越えて 弥栄町の年』京都府弥栄町役場、1995年3月1日、62頁。 
  15. ^ a b 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、22頁。 
  16. ^ a b c d e 和田野区” (PDF). ふるさとわがまちわが地域. 2022年9月7日閲覧。
  17. ^ 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年。 
  18. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、1508-1509頁。 
  19. ^ 『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年。 
  20. ^ 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、30頁。 
  21. ^ a b c 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、27頁。 
  22. ^ a b 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、28頁。 
  23. ^ 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、29頁。 
  24. ^ a b c d 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、30頁。 
  25. ^ a b 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、31頁。 
  26. ^ a b c 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、33頁。 
  27. ^ 『保存版 舞鶴・宮津・丹後の今昔』郷土出版社、2004年、94頁。 
  28. ^ 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、34頁。 
  29. ^ 『映画便覧 1960』時事通信社、1960年
  30. ^ a b 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、37頁。 
  31. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、20頁。 
  32. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、28頁。 
  33. ^ a b 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、36頁。 
  34. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、34頁。 
  35. ^ 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、120頁。 
  36. ^ a b 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、40頁。 
  37. ^ 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、40頁。 
  38. ^ a b c d e f 『時を越えて 弥栄町の40年』京都府弥栄町、1995年、20頁。 
  39. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、97頁。 
  40. ^ 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、97頁。 
  41. ^ 『時を越えて 弥栄町の40年』京都府弥栄町、1995年、63頁。 
  42. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、118頁。 
  43. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、48頁。 
  44. ^ 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、106頁。 
  45. ^ 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、143頁。 
  46. ^ 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、170頁。 
  47. ^ 2011年10月30日(前編)・11月6日(後編)放送 冬が怖い家”. 朝日放送. 2022年10月23日閲覧。
  48. ^ 安本宗春「地域内外における緩やかさを活かした関係構築 -京都府京丹後市弥栄町和田野区との大学連携-」『現代社会研究』第2021巻第19号、東洋大学現代社会総合研究所、2021年、137頁、doi:10.34375/gensoken.2021.19_129 
  49. ^ 「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2011”. 朝日放送. 2022年10月23日閲覧。
  50. ^ 塩田敏夫 (2020年2月23日). “地域のにぎわい拠点に”. 毎日新聞社 京都 丹波・丹後版: p. 18 
  51. ^ a b 国営農地(5)弥栄町和田野団地 京丹後市
  52. ^ 『弥栄町の農業』京都農林統計協会、1999年、40頁。 
  53. ^ 弥栄町『弥栄のまさか』弥栄町、1997年、10頁。 
  54. ^ 日本遺産~300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊~ 京丹後市
  55. ^ 萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、32頁。 
  56. ^ a b c 弥栄町『弥栄のまさか』弥栄町、1997年、32頁。 
  57. ^ 会社概要”. ちりめん工芸館. 2022年10月22日閲覧。
  58. ^ 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、181頁。 
  59. ^ 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、37頁。 
  60. ^ a b 『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、70頁。 
  61. ^ a b 『時を越えて 弥栄町の40年』京都府弥栄町、1995年、62頁。 
  62. ^ 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、124頁。 
  63. ^ 萩原勉『区長さん奮戦記』関西書院、1996年、125頁。 
  64. ^ a b c d e f g h 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、146-147頁。 
  65. ^ a b 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、148頁。 
  66. ^ 大田南二号墳出土品 京丹後市デジタルミュージアム
  67. ^ a b c d 弥栄町役場『新たなる旅立ち』弥栄町、2004年、152頁。 
  68. ^ 京丹後市教育委員会『京都府京丹後市 寺社建築物調査報告書 弥栄町』京丹後市教育委員会、2010年。 
  69. ^ 弥栄町役場『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、650-651頁。 
  70. ^ a b 『弥栄町史』弥栄町役場、1970年、672頁。 
  71. ^ 弥栄町役場『弥栄町史』竹野郡弥栄町、1970年、672頁。 
  72. ^ a b c 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の自然環境』京丹後市役所、2015年、175頁。 





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