六月暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 07:31 UTC 版)
六月暴動 | |||||||
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1870年に描かれた六月暴動のイラストレーション | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
七月王政政府 | レプブリカン[注釈 1] | ||||||
指揮官 | |||||||
ジョルジュ・ムートン(ローバウ伯) | |||||||
戦力 | |||||||
30,000 | 3,000 | ||||||
被害者数 | |||||||
死者73名、負傷者344名[1] | 死者93名、負傷者291名[1] |
1830年の七月革命により誕生したルイ・フィリップ1世の七月王政を打倒すべく、王政の強力な支柱であった首相カジミール・ピエール・ペリエが1832年5月16日に死去した隙を突いた形で、レプブリカン[注釈 1]が起こした反乱であり、この鎮圧をもって七月革命以来の実力的闘争は沈静化する。
ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』において、後半のクライマックスとなる場面の暴動である[2]。
背景
1830年の七月革命では、ブルボン朝シャルル10世退位ののち王政廃止を強く求められていたが、代議院に推挙された、ブルジョワジーに人気があったオルレアン公ルイ・フィリップ1世がフランス国王に即位することとなった。しかしながら新国王は革命への期待を裏切り、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが提唱した復古主義・オルレアニスムによる新憲法を制定し、議会制と民主主義を成立させる一方で、裕福なレジティミスト階級に政治的優位性を与えた。
ラファイエット学校運動で七月革命に関与したカルボナリ党員ルイ・オーギュスト・ブランキは、弁護士の娘と結婚して新政権への抗議と収監を繰り返した。ルイ・フィリップ1世を擁立した銀行家ジャック・ラフィットも、1831年3月には財務大臣を辞任。1832年までには、「七月革命でバリケードの中で血を流した結果が、日和見主義者らによるルイ・フィリップの戴冠であったということが、特にレプブリカン(種々の共和派)には、沸騰するほどの不満に感じられた[3]。」
新憲法に不満を抱いたブルジョワジーのレプブリカンは、39名の議員がラフィットの家に集まり、調査報告書の発表を検討した。これは1832年5月22日に発表され、新憲法と王政の欠陥を非難し、七月革命に対する反革命が進行中であることを指摘し、七月革命の勢力を大変に刺激することとなった[4]。
一方、 ナポレオン帝国の喪失を嘆くボナパルティストらにも不満が残っており、ブルボン朝の残影を懐かしむレジティミストたちは、密かに正統な後継者としてのシャンボール伯アンリ(シャルル10世の孫)の即位を画策していた。レプブリカンの中に入り込んだオルレアン主義者も、利得の機会を狙っていた。
中間的ブルジョワジーから支持を得て誕生した七月王政政権は、左右両派からの攻撃を同時に受けるようになっていた[5]。
原因とそれを助長するもの
暴動の原因には、1827年から1832年にかけて急速に深刻なものとなった経済問題があった。この時期には不作が続き、食糧事情は悪化、物価が上昇するなど、全ての階級において不満が高まっていたのである[6]。
さらに1832年春、ヨーロッパ全土を襲っていたコレラ禍がパリにも発生し、18,402人の死者を出すという惨事になった。特に貧困層は疫病で荒廃し、政府が井戸に毒を投じたとの噂まで広まった[6]。この疫病のため、首相のカジミール・ピエール・ペリエ(5月16日死去)とナポレオン傘下の将軍で自由主義派の政治家であるジャン・マクシミリアン・ラマルク(6月1日死去)の2人の著名人が亡くなった。ペリエが壮大な国葬で送られた一方、貧困層に向け同情を示し国民的な人気のあったラマルク将軍の葬儀は、反対派への強い警戒感が示されたものであった[6]。
両者の死亡以前でも、大きな暴動が2回起きている。ひとつは1831年12月にフランス第2の都市リヨンにおいて、経済困窮を理由に発生したカヌート(絹織物工)争議であり、鎮圧には地元の治安部隊では足らず、軍隊が投入された[7]。もうひとつは翌年2月に発生した、レジティミスト(復古主義者)一派が現王室を拉致しようとした「ルー・ド・プルーヴェールの陰謀」といわれるものである[5]。マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが息子シャンボール伯の即位を企み、扇動したものであったが、まもなく逮捕され陰謀は失敗に終わった。以降、レジティミストの活動は武力ではなく、出版物などの言論による闘争へと変貌することとなった[8]。
注釈
- ^ a b この時代のフランスの共和主義者は、ジロンド派的な穏健派から、ジャコバン派の伝統を汲む急進派、ボナパルティズムに組する一派、さらには社会主義的思想を持つものまで、複雑な様相を呈していたため、「共和主義者」の用語使用を避け。(急進党の前哨をなすという意味で)急進的な共和主義者に対し本項にて使用。
- ^ しかし吾人がこれから語ろうとすることは、自ら目撃したことであるとも言い得るものである。吾人はある人物の名前を変えるであろう、なぜなら歴史は物語るものであって摘発するものではないから。しかし吾人は真実の事柄を描くであろう。また本書の性質よりして、吾人が示すところのものはただ、一八三二年六月五日および六日の両日の、確かに世に知らるること最も少ない一方面のみであり一挿話のみであろう。しかしその上げられたる暗いヴェールの下に、この恐るべき民衆の暴挙の真相が瞥見されるように、したいものである。(『レ・ミゼラブル ― 第十編 一八三二年六月五日』豊島与志雄訳 青空文庫より)
出典
- ^ a b c (dir.) Dictionnaire de la conversation et de la lecture, Tome XI, p.702.
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ a b Mark Traugott, The Insurgent Barricade, University of California Press, 2010, pp.4-5.
- ^ De Henri Joseph Gisquet (1840), Mémoires de M. Gisquet, ancien préfet de police, Volume 2 - Google ブックス。
- ^ a b c d e f Seignobos, Charles. A Political History of Europe, Since 1814. New York: Henry Holt and Company, 1900.
- ^ a b c d e Harsin, Jill. Barricades: The War of the Streets in Revolutionary Paris, 1830–1848. New York: Palgrave, 2002.
- ^ Guy Antonetti, Louis-Philippe, Paris, Librairie Arthème Fayard, 2002, p.673f.
- ^ a b Cobban, Alfred. A History of Modern France. Vol. 2. Harmondsworth, Middlesex: Penguin Books Ltd, 1961.
- ^ Memoirs of General Lafayette and of the French revolution of 1830, Volume 2, R. Bentley, 1832, p.393.
- ^ a b Philip Mansel, page 285 "Paris Between Empires - Monarchy and Revolution 1814-1852, ISBN 0-312-30857-4
- ^ a b c d Jill Harsin, Barricades: The War of the Streets in Revolutionary Paris, 1830-1848, Palgrave Macmillan, 2002 p.60.
- ^ Albert Boime, Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, University of Chicago Press, Chicago, 2007, p.16
- ^ http://www.marxists.org/archive/marx/works/1848/07/01.htm
- ^ Graham, Robb (1998). Victor Hugo: A Biography. W.W. Norton and Company
- ^ http://www.online-literature.com/victor_hugo/les_miserables/
- ^ Godfrey, Elton. The Revolutionary Idea in France. Second Edition. London: Edward Arnold & Co., 1923.
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