作人館 作人館の概要

作人館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 08:42 UTC 版)

概要

盛岡藩の学校は1636年寛永13年)に南部重直盛岡城内の新丸に「稽古所」を設けたことに始まるとされ、その後、稽古所は日影門外に移転し、1840年天保11年)、南部利済の代に「明義堂」の名を与えられた[1]。明義堂は1862年文久2年)に校地拡張と校舎新築の上で「作人館」に改称した[1]。作人館は修文所・昭武所・医学所の3部門からなり、開校以降、士族の子弟は作人館に通うことが義務となった。学生が他国に遊学を希望する場合、文武と医学に限り、平素の勉学および教員の上申をもって判断され、許可が下りれば、江戸・大坂・長崎での勉学について藩費が支給された。学生数は200人で、藩費生と自費生の区別があり、学校の運営費は藩から支給された学田3千石で賄われた[2][3]

作人館は明治維新後、学制下で「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」に改まり、現在の盛岡市立仁王小学校にその歴史を繋げている[1][4]

跡地・遺産

仁王小学校が移転した後の作人館跡地には盛岡市立商業学校1924年大正13年)移転)が設立された。現在は、1876年(明治9年)に明治天皇が巡幸時に仁王小学校を行幸したことを記念した聖跡記念公園(日影門緑地)として整備されている[5]。また、校名「作人館」を記した扁額1面は1985年(昭和60年)8月1日に盛岡市の有形文化財に指定されている(仁王小学校所蔵)[1][6]

著名な学校関係者

教員

出身者

脚注

関連項目


  1. ^ a b c d 仁王歴史館 (PDF) - 盛岡市立仁王小学校、2019年11月22日閲覧。
  2. ^ 「農民生活変遷中心の滝沢村誌」 第十編 第四章”. 滝沢市教育委員会. 2019年11月22日閲覧。
  3. ^ 『日本教育史資料集』第1巻 冨山房 1903-1904年 p.701 2019年11月22日閲覧。
  4. ^ 仁王小学校 沿革 - 盛岡市立仁王小学校、2019年11月22日閲覧。
  5. ^ 日影門外小路 - 盛岡市、2019年11月22日閲覧。
  6. ^ 盛岡市指定文化財 - 盛岡市、2019年11月22日閲覧。


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