仲哀天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/20 23:32 UTC 版)
后妃・皇子女
- 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
- 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
- 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
- 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
- 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)
年譜
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[8]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 成務天皇48年
- 3月、皇太子に立てられる
- 仲哀天皇元年
- 1月、即位
- 11月、父の日本武尊を忍び白鳥を献上させる
- 仲哀天皇2年
- 仲哀天皇8年
- 1月、筑紫の橿日宮へ
- 9月、皇后が神がかり渡海遠征するよう託宣。無視して熊襲と闘い敗北
- 仲哀天皇9年
- 2月、崩御。宝算は52歳(『古事記』も同じ)
- 神功皇后摂政2年
- 11月、恵我長野西陵に葬られた
宮
『日本書紀』では行宮のみが記される。即位2年2月に先帝の志賀高穴穂宮を出て角鹿の笥飯宮(けひのみや)に滞在。3月に紀伊国で徳勒津宮(ところつのみや)に滞在。6月から熊襲を討つため穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫橿日宮に滞在。『古事記』では以下の2つが宮とされるが、いずれも『日本書紀』では行宮である。
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。『延喜式』諸陵寮には「兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と見える。岡ミサンザイ古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
注釈
出典
- ^ a b c 『国史大辞典9』吉川弘文堂 1988年 467ページ(笹山晴生)
- ^ a b c 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ(春名宏昭)
- ^ 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
- ^ a b 『日本史広辞典』山川図書出版社(1997)
- ^ a b 『新視点日本の歴史2古代編』新人物往来社(1993)白石太一郎pp154-161
- ^ a b 門脇(1979)p.594
- ^ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
- ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 武光 1997, p. 13.
- ^ a b 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
- ^ a b c d 大津 2010, p. 129-133.
- ^ a b c 武光 1997, p. 104.
- ^ 最新古代史論 学研 P62
- ^ 『近江・大津になぜ都は営まれたのか?』大津市歴史博物館 P53およびP59
- ^ 宝賀寿男「第四章 神武天皇が活動した時代」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年、200頁。
- ^ 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
- ^ 大津 2010, pp. 133–135.
- ^ 井上他 2003.
- ^ 「御橋悳言著作集 3 『曽我物語注解』」、続群書類従完成会、1986年、168-169頁
固有名詞の分類
- 仲哀天皇のページへのリンク