九六式陸上攻撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 00:49 UTC 版)
開発
ワシントン海軍軍縮条約は加盟国の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有量に制限を設けたが、結果として廃艦となる新造主力艦を改造した大型空母の出現を招いた。このことは航空母艦と艦載機(日本海軍での呼称は艦上機)を取り込んだドクトリンの複雑化を招き、空母増勢という新しい方面の軍備拡張競争を招きかねないことから、ロンドン条約では航空母艦の保有量にも制限がかけられた。しかし、いったん出現してしまった空母の存在は「敵空母による日本本土空襲」の潜在的脅威でありつづけたこともあり、日本海軍では1935年(昭和10年)の第二次ロンドン海軍軍縮会議では空母全廃に持ち込もうとしたが、失敗する。
ロンドン条約のために水上艦の増勢が不可能となったため、海軍航空本部長松山茂中将は長らく暖めていた長距離雷撃機の開発に乗り出した。山本五十六技術部長、和田操技術部主任、のちに参加する山縣正郷総務部員らスタッフを揃え、連日検討した。このような経緯の中で、陸上基地から発進して敵艦船(主として敵空母)を攻撃できる「沿岸用攻撃機」が考案された。
この当時、海軍機メーカーの中で大型全金属機の製作能力をもっていたのは広海軍工廠(広廠)と三菱内燃機(のちの三菱航空機)であったため、まず広廠で「七試特種攻撃機」(「七空攻撃機」とも呼称される、後の九五式陸上攻撃機)の開発に着手、次いで三菱に「八試特殊偵察機」1機の試作が発注された。八試特偵は1934年(昭和9年)4月に初飛行した後、計画が変更され、7.7 mm機銃2挺を搭載する「八試中型攻撃機」へと改称された。さらにこの試作の成果を元に九試陸上攻撃機が計画され、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所(大江)に発注された。設計主務者は八試特偵と同じ本庄季郎技師。試作機は10年6月に完成し、7月(1935年(昭和10年)7月)に初飛行に成功した。11年6月2日に九六式陸上攻撃機として制式採用された。
大型攻撃機である九五陸攻は「大攻」、中型の九六陸攻は「中攻」と称された。
注釈
- ^ 金属板の締結に使われる鋲は、金属板表面に丸い頭が出る。高速で飛ぶ航空機ではこれが空気抵抗の原因となるので、頭の出ない特殊な沈頭鋲を使用した。この結果、機体表面は平滑に仕上がった。
- ^ 米軍戦闘機 P-51も胴体タンクを満たすと重心位置後退が著しいが安静に飛ぶ限り巡航可能
- ^ 胴体最大断面において幅1.35m/高さ1.8m→幅1.6m/高さ2.0m、胴体は0.62m長い
- ^ 部分引込式としては日本軍用機での採用第1号
- ^ 海軍機では操縦員が階級上位でない限り偵察員が機長を務めるため機首に離れて座るのは都合が悪かった。[9]
- ^ イラン側からも微風を意味する「ナスイーム」と称された。
- ^ 同機に使節として搭乗した笹川良一は、ローマ到着後ムッソリーニと会談している。
出典
- ^ 『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』123頁
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P133
- ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P139
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P137~P138
- ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P142
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P12
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P31
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P137、P139
- ^ アテネ書房 みつびし飛行機物語 松岡久光 P200~P201
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P12~P15
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P11~P16
- ^ 酣燈社 精密図面を読む【4】 P14
- ^ 巌谷二三男「わが追想の海軍中攻隊」88ページ、『丸エキストラ 戦史と旅6』潮書房、1997年、82-90ページ
- ^ 杉田親美『三菱海軍戦闘機設計の真実 : 曽根嘉年技師の秘蔵レポート』国書刊行会、2019年。ISBN 978-4336063670。p83–85
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 P27
- ^ 『日本航空機一〇〇選』、P145-146
- ^ 『世界の傑作機 No.91 九六式陸上攻撃機』、P17、P32-33
固有名詞の分類
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