九六式陸上攻撃機
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形式
試作型
- 八試特殊偵察機(G1M1)
- 九六陸攻の基になった機体。社内名称「カ-9」。偵察機とされるが、実質的には研究機だった。広廠「九一式」水冷W型12気筒500馬力発動機を搭載、日本初の自動操縦装置と引き込み脚を装備していた。胴体形状は九六式陸攻とはかなり異なる。後に7.7mm旋回機銃2挺を追加装備し、名称が「八試中型攻撃機」に変更されている。地上滑走中に事故を起こした後に発動機を950馬力の三菱「震天」空冷複列星型14気筒に換装し、最高速度が293km/hに向上した。1機生産。
- 短時間で開発するため操縦系統にはユンカースの標準部品を流用したところ、操縦装置の剛性が不十分なのにかえって操縦性がきわめてよいという結果を出し、これを元に九六式艦上戦闘機二号二型にあえて操縦索を伸び易いものにする「剛性低下式操縦索」を採用、零式艦上戦闘機では初期型から昇降舵に用いられた[14]。
- 九試中型陸上攻撃機(甲案型)
- 八試特偵を基にして尾翼胴体を再設計し操縦席が正副並列式に改められ、銃座と魚雷・爆弾搭載装置が搭載された陸攻型。甲案・乙案ともに社内名称は「カ-15」。偵察席が操縦席後方にある。1、2、5、6号機は九一式水冷600馬力を装備し、3、4号機は三菱「金星」二型空冷680馬力を装備している。プロペラはNW116木製4翅固定ピッチ。6機生産。
- 九試中型陸上攻撃機(丙案型)
- 偵察員席が操縦席より前に配置され、機首に透明銃座を設けた。甲案に比べ機首が短縮され、操縦席の風防は盛り上がった形になっている。7~10号機・12~21号機の発動機は「金星」二型を装備し、プロペラはNW126木製4翅固定ピッチ。11号機は修理の際に発動機を「金星」三型を換装し、プロペラも金属製3翅可変ピッチとされた。15機生産。
基本型
- 九六式陸上攻撃機一一型(G3M1)
- 甲案型を採用した量産型。発動機は金星三型でカウルフラップが追加された。3翅可変ピッチプロペラ装備。後方視界向上のため、胴体上部と操縦席風防が丸みを持つ断面形状に変更された。34機生産。
- 九六式陸上攻撃機二一型(G3M2)
- 2機目(57号機)から主翼後縁の外板を波板から平板に変更[15]、
- 発動機を「金星」四二型に換装しプロペラ直径を3.20mに変更したもの。343機生産。
- 九六式陸上攻撃機二二型(G3M2)
- 戦訓を取り入れた武装強化型で、胴体上面の後方銃座をブリスター型銃座の20mm旋回機銃1挺に改め、胴体側面に7.7mm旋回機銃各1挺を装備したブリスター型銃座が新設された武装強化型。胴体下方の垂下筒は廃止され、411号機以降は胴体下面の段がなくなり下方銃の支基が設けられた。これら武装強化に伴い乗員が7名に増えている。また後期生産型の79機は金星四五型を装備している。38機生産。
- 九六式陸上攻撃機二三型(G3M3)
- 「金星」五一型装備の最終生産型で全機中島飛行機で生産された。発動機の強化に伴い燃料搭載量も5,182リットルに増加された。412機生産。
輸送機型
1939年(昭和14年)に九六式陸攻二一型を元に燃料・滑油タンクの増設と武装の削減、機内に8~10人分の座席を備える客室設置などの改造を行った機体を、海軍では九六式陸上輸送機として採用、同様の改造は一一型に対しても実施され、後年には落下傘部隊用の特殊輸送機へ改造したものも登場した。
九六式陸上輸送機は民間でも三菱式双発輸送機として大日本航空や各新聞社で輸送や連絡に用いられた。これらの中には世界一周飛行を行ったニッポン号など、日本から各国への長距離飛行に供されたものがあった。
- 九六式陸上輸送機一一型(L3Y1)
- 九六式陸上攻撃機一一型、同二一型から改造。発動機は金星四二型ないし四五型を標準とした。
- 九六式陸上輸送機二一型(L3Y2)
- 客室内部を落下傘部隊用に改造、胴体下面には装備品の梱包を搭載可能とした機体。
- 三菱式双発輸送機
- 軍用型から一部の艤装を変更して武装を全廃、乗客定員4~8人の旅客機、もしくは貨物輸送機としたもの。
長距離飛行を行った三菱式双発輸送機の例としては以下のようなものがあった[16][17]。
- ニッポン号(J-BACI)
- そよかぜ号(J-BEOA)[注釈 6]
- 1939年(昭和14年)4月にイランで行われた皇太子パフラヴィーとエジプト王女ファウズィーヤの結婚式に際し、日本からの慶祝使節を乗せた往復親善飛行を同年4月9日~4月15日(往路)、5月15日~5月27日(復路)にかけて行い、イラン滞在中には4月25日にテヘラン上空での空中分列式に参加、またアフガニスタンやイタリア方面への親善や航路開拓を目的とした追加飛行も検討されたがこれらは実現せず終わった。
- 大和号(J-BEOC)
- 1939年(昭和14年)11月に日泰間航空路開拓飛行を、同年12月から1940年(昭和15年)1月にかけては東京―ローマ往復親善飛行[注釈 7]を行った。
- 龍風号(J-BEOE)
- 大和号の成功を受け、1940年(昭和15年)2月に日本―タイ航空便試験飛行を行った。
- 松風号(J-BEOG)
- 1940年(昭和15年)6月10日、大日本航空の羽田―バンコク間定期航空便一番機となった。
注釈
- ^ 金属板の締結に使われる鋲は、金属板表面に丸い頭が出る。高速で飛ぶ航空機ではこれが空気抵抗の原因となるので、頭の出ない特殊な沈頭鋲を使用した。この結果、機体表面は平滑に仕上がった。
- ^ 米軍戦闘機 P-51も胴体タンクを満たすと重心位置後退が著しいが安静に飛ぶ限り巡航可能
- ^ 胴体最大断面において幅1.35m/高さ1.8m→幅1.6m/高さ2.0m、胴体は0.62m長い
- ^ 部分引込式としては日本軍用機での採用第1号
- ^ 海軍機では操縦員が階級上位でない限り偵察員が機長を務めるため機首に離れて座るのは都合が悪かった。[9]
- ^ イラン側からも微風を意味する「ナスイーム」と称された。
- ^ 同機に使節として搭乗した笹川良一は、ローマ到着後ムッソリーニと会談している。
出典
- ^ 『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』123頁
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P133
- ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P139
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P137~P138
- ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P142
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P12
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P31
- ^ グリーンアロー出版社 開戦前夜の荒鷲たち 秋本実 P137、P139
- ^ アテネ書房 みつびし飛行機物語 松岡久光 P200~P201
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P12~P15
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 九六式陸上攻撃機 P11~P16
- ^ 酣燈社 精密図面を読む【4】 P14
- ^ 巌谷二三男「わが追想の海軍中攻隊」88ページ、『丸エキストラ 戦史と旅6』潮書房、1997年、82-90ページ
- ^ 杉田親美『三菱海軍戦闘機設計の真実 : 曽根嘉年技師の秘蔵レポート』国書刊行会、2019年。ISBN 978-4336063670。p83–85
- ^ 文林堂 世界の傑作機No91 P27
- ^ 『日本航空機一〇〇選』、P145-146
- ^ 『世界の傑作機 No.91 九六式陸上攻撃機』、P17、P32-33
固有名詞の分類
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