モーゼス・ヘイズン モーゼス・ヘイズンの概要

モーゼス・ヘイズン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)

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モーゼス・ヘイズン
Moses Hazen
生誕 1733年6月1日
マサチューセッツ植民地、ヘイバリル
死没 1803年2月5日(69歳没)
ニューヨーク州トロイ
所属組織 イギリス軍
大陸軍
軍歴 1755年-1763年(イギリス軍)
1775年-1783年(大陸軍)
最終階級 准将
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初期の経歴

ヘイズンはマサチューセッツ植民地ヘイブリルで、昔からのニューイングランドピューリタンの家庭に生まれた。ヘイズンはユダヤ人であることを示す逸話が伝わっている。系図学者に拠ればヘイズンの家系は明らかにイングランドに繋がり、そこでは姓がハッセンだった[1][2]。ヘイズンの同時代人、例えばジェイムズ・トンプソン軍曹はその日記『フレーザーのハイランダー』の中で、サントフォアの戦いからの撤退中にヘイズンに会ったときに、「途中で私はユダヤ人のモーゼス・ヘイズン大尉に出くわした」と書いており、ヘイズンがユダヤ人と考えていたと考えられる[3]

フレンチ・インディアン戦争

ジョージ・キャンピオン描くサントフォアの戦い

フレンチ・インディアン戦争が始まったとき、ヘイズンは革鞣し屋で徒弟修業をしていた。1756年、家族の多くの者が入っていた地元の民兵隊に入隊した[4]。初めにジョージ湖近くのウィリアム・ヘンリー砦で任務に就き、そこでロジャーズ・レンジャーズの指揮官ロバート・ロジャーズと初めて出逢い、その指揮下に入った。ロジャースはその後、レンジャーズの新しい中隊でヘイズンを士官に任命するよう推薦した。1758年、イギリス軍によるルイブール要塞包囲戦中にヘイズンの兄弟が物資をイギリス軍に供給するの助けた後、エドワード砦でレンジャーズのジョン・マカーディ中隊で少尉に任官された[5]。マカーディ中隊では、ルイブール攻撃で戦闘が極めて激しかった最初の上陸時を含め、戦闘に参加した[6]

ルイブールの後、その中隊はまずセントジョン砦に駐屯し、その後セントアン砦に移ってアカディア人やインディアンに対して戦い、襲撃を行った。ある特に残酷な事件の中で、6人の男の頭皮を剥ぎ、他に4人と2人の女、3人の子供をヘイズンが火を付けた家屋で焼き殺した[7]。地元の民兵隊指導者で焼かれた女性の父でもあったジョセフ・ベルフォンテーンは、レンジャーズへの協力を強制するためにこの事件を目撃させられたと訴えた(ベルフォンテーンは2人の孫と共に森の中に逃亡した)[8]。ヘイズンを大尉に昇格させるまでこの事件を知らなかったジェフリー・アマースト将軍は、「私は常に女性や幼気な子供を殺すことを認めないので彼の長所を傷つけたあの事件について聞いたと言うのは残念なことだ。」と述べた[9]

1759年1月、マカーディ大尉が兵士の倒した木の下敷きになって死んだ。ヘイズンは中隊の指揮を任された[7]。1759年のその後に中隊はケベック包囲戦に参加し、おもに郊外の偵察や襲撃に関わった。ケベック市が陥落したときは、それらの襲撃の一つに出ていた。ヘイズンの中隊が関わったもう一つの残虐行為として、ケベックに近い教区で牧師1人と30人の教区員が殺され頭皮を剥がれた[10]

ヘイズンは1760年のサントフォアの戦いにも参戦し、太腿に重傷を負った。1761年2月、イギリス軍第44連隊の中尉としての任官を購入した。この戦争の残り期間はモントリオールの守備隊任務となり、1763年に休職給で退官した。ジェイムズ・マレー将軍は1761年にヘイズンについて、「彼は大変な勇敢さを示し功績を残したので、彼が要求できるあらゆる軍隊的報償を得る資格がある」と肯定的に記した[11]

土地開発

ヘイズンの共同経営者ガブリエル・クリスティ

ケベック包囲戦の間にヘイズンは当時補給係副官だったガブリエル・クリスティと出逢った。クリスティはモントリオールの南、リシュリュー川流域に幾らかの土地を所有しており、その資産を拡大しようと考えていた(クリスティは後にケベック最大級の土地所有者となった)[12]。戦後、クリスティとヘイズンは共同で、サントジャン砦に近いリシュリュー川東岸にあるサブレボアとブルーリーの領主領地を購入した。また西岸の土地をロンギュール男爵から賃借した。これらの所有によってシャンプレーン湖から船で到達可能な北端であるサントジャン周辺の土地所有権をほとんど排他的に支配した[13]

まだ軍務に就いていたクリスティはその土地を離れることが多かったので、ヘイズンが土地を開発し、クリスティが資金を提供した。ヘイズンはアイバービルに領主館を造り、2箇所の製材所を造って木材の販売など各種の事業を始めた。1765年、ヘイズンは土地の副測量士と治安判事にも指名された[14]。その取り扱う事業の中で、ニューヨーク市のイギリス軍指揮官だったトマス・ゲイジ将軍に、軍用の設備や木材を提案した。ゲイジは当時興味を示さず、その地域で軍事行動が必要になれば、その提案を心に留めておくと伝えただけだった[15]

ヘイズンは領主領での事業を拡張したが、その積極的な開発で負債も背負い、クリスティとの間に摩擦を生じた。1770年、負債に不満だったクリスティは最終的に精算を要求した。このことで持ち分の分割を行うことになり、ヘイズンはブルーリースドと呼ばれるブルーリー領主領の南側部分を受け取った[16]。ヘイズンとクリスティーはその後何年もこれらの土地の支配権を巡って訴訟を繰り返し、アメリカ独立戦争後にクリスティが全体の支配権を勝ち取った[17]

1762年、ヘイズンの兄弟であるジョンがコネチカット川東岸の最北、ニューハンプシャーのヘイブリルに入植し、1764年にはジェイコブ・ベイリーがヘイブリルとは対岸の、現在ではバーモント州ニューベリーに入植した。ヘイズンはこれらの開拓地に持ち分を持っており、またコネチカット川西岸、今日のバーモント州ブラッドフォードでも土地を取得した。そこからセントジャンまで道路を建設するアイディアが生まれたのはこの時だった。このアイディアはアメリカ独立戦争のときに再浮上し、ジョージ・ワシントンがベイリー・ヘイズン軍事道路の建設を承認した[18]

ヘイズンの土地開発は、セントジョン川協会に加入した1764年に成長を続けた。この組織は当時はノバスコシア、現在のニューブランズウィック州のセントジョン川に沿った土地を開発する目的で、軍隊の士官集団が創設したものだった。その共同出資者の中には、トマス・ゲイジ、フレデリック・ハルディマンド、ウィリアム・ジョンソンおよびトマス・ハチンソンが入っていた[19]

1770年秋、ヘイズンはモントリオールの名家出身であるシャーロット・ド・ラ・ソセーと結婚した。夫妻はサントジャンに近い所で落ち着き、家を建て、農業を始めた[20]


  1. ^ Everest, pp. 1-2
  2. ^ |Stanley, p. 28
  3. ^ The Battalion”. 2008年4月29日閲覧。
  4. ^ Everest, p. 3
  5. ^ Everest, pp. 4-5
  6. ^ Everest, p. 6
  7. ^ a b Everest, pp. 6-7
  8. ^ Brymner (1906), Volume 2, p. 140
  9. ^ Everest, p. 8
  10. ^ Everest, p. 9
  11. ^ Everest, pp. 11-14
  12. ^ Noel, p. 13
  13. ^ Everest, p. 17
  14. ^ Everest, p. 18
  15. ^ Everest, p. 19
  16. ^ Noel, p. 18
  17. ^ Noel, p. 32
  18. ^ Everest, pp. 22-23
  19. ^ Everest, p. 24
  20. ^ Everest, pp. 21?22
  21. ^ Everest, p. 29
  22. ^ Stanley, pp. 39-40
  23. ^ Stanley, p. 41
  24. ^ Everest, p. 32
  25. ^ Everest, pp. 32-33
  26. ^ Everest, pp. 35-36
  27. ^ Everest, p. 38
  28. ^ Everest, p. 39
  29. ^ Everest, p. 41
  30. ^ a b Everest, p. 42
  31. ^ Everest, p. 40
  32. ^ Everest, pp. 42-43
  33. ^ Everest, p. 43
  34. ^ Everest, pp. 44-45
  35. ^ Everest, pp. 47-48
  36. ^ a b Everest, p. 52
  37. ^ Everest, pp. 48-49
  38. ^ Everest, pp. 53-54
  39. ^ McGuire, p. 69
  40. ^ Everest, p. 55
  41. ^ Everest, p. 48
  42. ^ Everest, pp. 58-59
  43. ^ Everest, pp. 60-61
  44. ^ Wells, pp. 86-87
  45. ^ Wells, p. 87
  46. ^ Everest, p. 74
  47. ^ Everest, pp. 75-79
  48. ^ Everest, pp. 81-83


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