モーゼス・ヘイズン アメリカ独立戦争

モーゼス・ヘイズン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)

アメリカ独立戦争

大陸会議所有連隊の動き

大陸軍の到着

1775年にアメリカ独立戦争が始まったとき、ヘイズンはサントジャンで半給で暮らしていた。5月18日にベネディクト・アーノルドがサントジャン砦を襲ったとき、ヘイズンはその襲撃の報せを(タイコンデロガ砦占領の報せと共に)まずモントリオールの軍当局、続いてケベック市ガイ・カールトン総督に報告した。その後家に戻って、この紛争が自分自身や土地に与えるかも知れない影響を検討した[21]

アメリカ大陸軍がカナダに侵攻し、9月6日にはサントジャンのヘイズンの家近くまで到着した。その日ヘイズンはフィリップ・スカイラー将軍に会って、サントジャン砦は防御が固いので包囲戦でも抜けそうにないこと、また地元の住人はアメリカ側を支援しそうにないことを説明した。この悲観的な話にスカイラーは撤退を考えたが、新たな大陸軍が到着し、近くのシャンブリーに住んでいる穀物商ジェイムズ・リビングストンからの楽観的な評価もあって、大陸軍は改めて攻撃することになった[22]。リビングストンは11月に第1カナダ連隊を結成させることになった。

投獄と釈放

9月17日、このとき大陸軍を指揮していたリチャード・モントゴメリー准将がサントジャン砦包囲戦を開始した。翌日ジョン・ブラウンの指揮する大陸軍分遣隊が、砦の北でヘイズンを逮捕した。しかし、砦からのイギリス軍突撃隊がブラウン隊を後退させた。ヘイズンはイギリス軍の手に渡った[23]。イギリス軍指揮官のチャールズ・プレストン少佐はヘイズンを信用せず、クロード・ド・ロリミエの護衛付きでモントリオールに送った。リチャード・プレスコット准将はヘイズンの行動に関する説明に不満であり、ヘイズンを投獄した[24]

ケベックの戦いでのモンゴメリー将軍の戦死ジョン・トランブル

ヘイズンは過酷な状態で54日間閉じ込められていた。イギリス軍はサントジャン砦の陥落後にモントリオールから撤退し、そのときに使った多くの船の一つに囚人を乗せて輸送した。イギリス船隊の大半は大陸軍に捕獲され、大陸軍はその支持を表明したヘイズンや他の政治犯を釈放した。ヘイズンはイギリス軍から受けた待遇に不満であり、ケベック市に向かう大陸軍に入隊した。ヘイズンは、アメリカ軍が包囲戦中にその土地にかなりの損害を与え、物資のために略奪し、ヘイズンの家を宿舎に使ったという事実にも拘わらず大陸軍に入隊した[25]

ケベックでの従軍

ヘイズンはケベックの戦いに従軍し、その破壊的な損失をフィラデルフィアの第二次大陸会議に報告するために派遣された二人の内の一人となった(もう1人はエドワード・アンティル)。大陸会議はヘイズンの功績を認めて大佐に任官し、大陸軍の第2カナダ連隊、またの名を大陸会議所有連隊あるいはヘイズン連隊の指揮官に任じた(アンティルはこの連隊の中佐に任じられた)。ヘイズンは当初准将の位を提案されたが、これを拒み、その代わりに大佐を要求し、戦闘で失われた損失への賠償を求めた(ヘイズンの資産は既にサントジャン砦周辺の大陸軍の行動でかなりの損傷を受けていた)。ヘイズンはリビングストンの大尉の一人であるジョン・ダガンより前にフィラデルフィアに到着して幸運だった。ダガンにはそれ以前にベネディクト・アーノルドが第2カナダ連隊への任官を約束していた[26]

ヘイズンとアンティルはケベックに戻り、アンティルが連隊のための兵士を徴兵している間、ヘイズンはモントリオールに駐屯していた[27]。ヘイズンは1776年3月下旬から4月半ばの短期間大陸軍のためにモントリオール防衛軍を指揮した。このときデイビッド・ウースター将軍がケベック郊外の大陸軍を指揮し、アーノルドがモントリオール守備隊の指揮官に就任した[28]。ヘイズンが指揮を執った間にティモシー・ベデルと390名の兵士を派遣してモントリオールから約40マイル (64 km) 上流のザ・シーダーズの防御を固めさせた。この部隊は5月のシーダーズの戦いでイギリス軍とインディアンの連合軍に降伏した[29]

アーノルドとの衝突

アーノルドがモントリオールの指揮権を執ったことに続いて、ヘイズンの連隊はシャンブリー砦の守備隊任務を与えられた。ヘイズン(およびその兵士)はザー・シーダーズの戦闘に対する大陸軍の反抗を支援する援軍として呼ばれた。作戦会議でヘイズンとアーノルドはどのような行動をとるべきかについて白熱したやり取りを行い、アーノルドの意見では命令不服従の域に達していた[30]。アーノルドはそれ以前にヘイズンについて高い評価をしており、ヘイズンは「分別が有り、賢明な士官であり、この国を知悉している」と記していた[31]

1776年5月と6月に大陸軍がケベックから撤退する間、ヘイズンとアーノルドは告発と反論の告発、軍法会議やその他の審問などに繋がる論争に巻き込まれ、これが1779年まで続くことになった。問題はアーノルドがモントリオールの商人から徴発し、シャンブリーに送って、退却の一部として南に運ぶよう命じた物資のことだった。ヘイズンはシャンブリーの施設を担当しており、その物資がモントリオールの友人の資産であると分かったために、その物資の運び出しを認めることを拒んだ。それに続く退却の中で、これら物資の大半は略奪され失われた[32]。アーノルドは即座にヘイズンを命令に従わなかった廉で軍法会議に掛けることを望んだが、イギリス軍が接近した為に、タイコンデロガ砦に戻るまでそのようなことはできなかった。アーノルドのヘイズンに対する意見ははっきりと変わった。「これはヘイズン大佐が命令に従わなかった最初の機会でも最後の機会でもなかった。彼が就いているポストに対してあまりに出すぎた男だと思う」と記した[33]

ヘイズンの軍法会議は1776年7月19日に開かれ、見事に無罪となった。しかし、その過程には異例のことがあり(判事側弁護士はモントリオールからシャンブリーまで物資を運んだまさにその士官であったので、証言しなかった)、アーノルドはその後もヘイズンを攻撃し続けた。1776年12月、別の審問が開かれ、ヘイズンはまたしても悪事をしていないとされた。続いてヘイズンがアーノルドをモントリオールの商人から略奪したと告発した。アーノルドは1779年までこの容疑を晴らすことなく、その時には既にイギリスへの寝返りを考えていた[34]

連隊の立ち上げ

ヘイズンの連隊はケベックからの撤退によって著しくその数を減らしており[30]、1776年の夏から秋にまずタイコンデロガ砦で、続いてオールバニでの任務を与えられ、その後フィッシュキルでの冬季宿営を命じられた。この期間、ヘイズンは徴兵を続け、大陸会議からはアメリカのどこからでも徴兵してよいという許可を得た。北部の植民地ではそこの連隊を補充するのも困難であったので、ヘイズンは難渋した。他の徴兵担当者に競り負けることも多かった。中部植民地(主にニュージャージー、メリーランドおよびペンシルベニア)で徴兵したアンティルはより成功を収めた[35]。1777年6月までにこの連隊は700名にまで達したが、承認されていた勢力は1,000名だった。当初のケベック出身の兵士と13植民地から徴兵した新しい兵士との間の文化的違いが、連隊内のよくある摩擦の原因になった。その結果、ヘイズンはフランス語を話す兵士を別の中隊にまとめた[36]

ヘイズンはケベックの自分の資産に対する損害について大陸会議に補償を求めた。当初の請求額は11,363ドルだったが、大陸会議は1776年10月に2,595ドルを支払った[37]

フィラデルフィア方面作戦

1777年5月、ヘイズンの連隊はニュージャージープリンストンで大陸軍主力と合流するよう命じられ、ジョン・サリバンの旅団の一部としてフィラデルフィア方面作戦で活動した。ヘイズンの中隊の幾つか(ヘイズン自身のものは除く)はスタテンアイランドの戦いに参戦し、この戦いでアンティルが捕まった[36]ブランディワインの戦いでヘイズンが指揮したのは、大陸軍前線の北端であり、そこはイギリス軍によって攻撃された側面の一つになった。この戦闘でヘイズン連隊は4名の士官と73名の兵士を失った[38]ジャーマンタウンの戦いでは、自分の連隊に加え、第2、第4および第6メリーランド連隊を含む1個旅団を指揮した[39]。この旅団はサリバン隊の一角となって町に行軍した。ヘイズン連隊はこの時の戦闘で士官3名と19名の兵士を失った[40]

ベイリー・ヘイズン道路の提案

ヘイズンは1776年にアメリカに戻って以来、特にカナダを主題として大陸会議と常に対話を続けていた[41]1778年1月、この対話がいくらかの結果を生み、フランスの援助もあってカナダ侵攻の計画が始まった。ヘイズンはこの作戦で補給係副官に指名された。しかしその計画は兵站の難しさで挫折し、実行されることは無かった。最終的に1778年3月に大陸会議が中止させた[42]

この失敗でもヘイズンにとってカナダ侵攻のための新しい経路を提案する障害にはならなかった。その経路はヘイズンが土地を所有しその地域を知っているニューベリーから、ケベックのサントフランシスに至るものだった。7月12日、ハイズンはニューベリーを出発しその経路を偵察した。7月25日にはホワイトプレーンズに戻っていた。この動きはニューヨーク地域で人員が必要とされたために暫く中断された。ニューベリーを発する経路に基づくケベック攻撃の計画は1778年秋にも再考されたが、ワシントンがそのアイディアに対する抵抗を続けた[43]

道路建設任務

1779年の春と夏、ヘイズン連隊とティモシー・ベデル連隊は、再度カナダ侵攻を始める目標を持ってベイリー・ヘイズン軍事道路の建設のために働いた。道路の一部、ニューベリーとピーチャムの間は1776年にジェイコブ・ベイリーによって造られていた[44]。ヘイズンは現在のバーモント州北部ヘイズンズノッチと呼ばれる所まで道路建設を監督した。この建設は、8月にイギリス軍が建設部隊を捕まえるためにセントジョンで軍隊の準備をしているという報せが入って中断された。ワシントン将軍はこの経路で侵攻軍を送るつもりにはならなかった。工事全体はイギリス軍の注意を逸らすための囮であり、侵攻を始めることは思いとどまらせた[45]。ワシントンは大陸会議に宛てて、この工事は「ケベックとセントローレンス川沿いの基地で注意を喚起する目的のものであり、先のサリバン将軍の遠征隊のために牽制を行うものである。 ... 遠征は見事成功した。」と書き送った[46]

ニューヨーク周辺での任務

ヘイズンとその連隊はニュージャージーのモリスタウンにあるワシントンの主宿営地でその冬を過ごした。そこでヘイズンは再度訴訟沙汰に巻き込まれた。アーノルドとの以前の対立に関する告発を審査する軍法会議のためにその任務を解かれ、また夏の道路建設の間に物資の管理を誤ったことで告訴された。1780年春にストイベン男爵による軍隊の詳細審査が行われ、ヘイズン連隊と既に103名まで減っていたリビングストン連隊を合併するよう推奨された。ヘイズンとリビングストンの間にはその年功に関する政治的な確執があり、ヘイズンがその闘争に敗れて、1781年1月1日付けの再編成実行に続いて、統合された連隊を諦めることになった[47]

1780年1月、この連隊は失敗したスタテンアイランドの攻撃に関わった。この作戦がイギリス軍に漏れていた。ヘイズン連隊はエノック・プア旅団に転籍となった。その転籍が実行されるまでにヘイズンは全旅団の指揮を任されたが、このときも准将昇任の要請は拒絶された。その夏、旅団はウェストポイント地域に配置換えとなった。そこへ行く途中でヘイズンは兵士達が水を飲む為に停止することを認めたが、これで軍の隊列を壊してしまった。ストイベン男爵は軍の規律を破った廉でヘイズンの逮捕を命じた。このときもヘイズンは無罪となり、直ぐに士官および紳士に相応しくない行動でストイベンを告発した。ストイベンは謝罪した。

ヘイズン連隊はその秋ウェストポイントの対岸で守備に就いたが、このときイギリス軍スパイのジョン・アンドレが捕まり、アーノルド将軍は逐電した。ヘイズンの甥であるベンジャミン・ムーアズを含めヘイズン旅団の兵士100名がアンドレの処刑に立ち会った[48]

ヨークタウン

1781年6月29日、ヘイズンは准将に昇進し、ヨークタウンの戦いの時はラファイエット指揮下の1個旅団長を任された。


  1. ^ Everest, pp. 1-2
  2. ^ |Stanley, p. 28
  3. ^ The Battalion”. 2008年4月29日閲覧。
  4. ^ Everest, p. 3
  5. ^ Everest, pp. 4-5
  6. ^ Everest, p. 6
  7. ^ a b Everest, pp. 6-7
  8. ^ Brymner (1906), Volume 2, p. 140
  9. ^ Everest, p. 8
  10. ^ Everest, p. 9
  11. ^ Everest, pp. 11-14
  12. ^ Noel, p. 13
  13. ^ Everest, p. 17
  14. ^ Everest, p. 18
  15. ^ Everest, p. 19
  16. ^ Noel, p. 18
  17. ^ Noel, p. 32
  18. ^ Everest, pp. 22-23
  19. ^ Everest, p. 24
  20. ^ Everest, pp. 21?22
  21. ^ Everest, p. 29
  22. ^ Stanley, pp. 39-40
  23. ^ Stanley, p. 41
  24. ^ Everest, p. 32
  25. ^ Everest, pp. 32-33
  26. ^ Everest, pp. 35-36
  27. ^ Everest, p. 38
  28. ^ Everest, p. 39
  29. ^ Everest, p. 41
  30. ^ a b Everest, p. 42
  31. ^ Everest, p. 40
  32. ^ Everest, pp. 42-43
  33. ^ Everest, p. 43
  34. ^ Everest, pp. 44-45
  35. ^ Everest, pp. 47-48
  36. ^ a b Everest, p. 52
  37. ^ Everest, pp. 48-49
  38. ^ Everest, pp. 53-54
  39. ^ McGuire, p. 69
  40. ^ Everest, p. 55
  41. ^ Everest, p. 48
  42. ^ Everest, pp. 58-59
  43. ^ Everest, pp. 60-61
  44. ^ Wells, pp. 86-87
  45. ^ Wells, p. 87
  46. ^ Everest, p. 74
  47. ^ Everest, pp. 75-79
  48. ^ Everest, pp. 81-83


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