フレディ・バイナム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 19:11 UTC 版)
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![]() オリックス時代(2010年) | |
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | ノースカロライナ州ウィルソン |
生年月日 | 1980年3月15日(41歳) |
身長 体重 |
186 cm 83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手、外野手 |
プロ入り | 2000年 MLBドラフト2巡目 |
初出場 |
MLB / 2005年8月30日 NPB / 2010年3月31日 |
最終出場 |
MLB / 2008年7月17日 NPB / 2010年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
2000年にドラフト2巡目でオークランド・アスレチックスから指名を受け、プロ入り。オリオールズでは外野手登録となっているが、2006年はレフトが13試合、ライトが8試合、センターが3試合なのに対して、セカンドも18試合守っている。打撃は特別良くはない。2007年は、ショートを15試合守っている。
2008年にボルチモア・オリオールズより解雇された後、ワシントン・ナショナルズのマイナーリーグ組織でプレーしていた。アトランタ・ブレーブスに対して相性が良く、2006年は14打数4安打4打点で打率.286と、シーズン打率.257に比べると、高い水準を保っている。また、2006年は4本のホームランを放っているが、そのうち2本はこれもまたブレーブス戦で放っている。
2010年3月、オリックス・バファローズに入団。背番号は清原和博が引退して1年間空き番となっていた「5」。成績不振で解雇されたホセ・フェルナンデスと交渉決裂で退団したタフィ・ローズの後釜としてバルディリスと共に期待された。
開幕当初は主に代走要員として一軍に帯同。4月27日の対日本ハム戦で、前の試合で敗戦に繋がる痛恨の失策をした後藤光尊に替わって、二塁手として来日初スタメンとなるが、5回裏に痛恨のタイムリーエラーをし、それが決勝点となり敗れ、5月3日のソフトバンク戦で、同点で迎えた6回裏の無死満塁で代打起用され1球も振らず見逃し三振に終わり、翌日に二軍降格。チームのBクラスが決定した後、9月28日に一軍昇格し、残りの3試合でスタメン出場するが、公式戦最終試合の10月1日対ロッテ戦で、初回に逆転を許す失策をし、最終打席で内野ゴロながら来日初打点を記録するも、4-5で敗れ、ロッテはクライマックス・シリーズ進出を決める。一軍での試合出場は16、打率.138、1打点、二軍では74試合に出場して打率.282、リーグ最多の8三塁打、チーム最多の16盗塁。球団は翌年も契約を更新する方針で、10月のフェニックスリーグにも帯同し、10月23日の試合ではサイクル安打も達成した。しかし、条件面で折り合いがつかず、1年で退団した。
2011年、セントルイス・カージナルスとマイナー契約し[1]、4月に解雇され、その後は一般職に就く。
選手としての特徴
本職の遊撃手を中心に内・外野の全ポジションを高いレベルでこなすユーティリティープレイヤー。俊足も持ち味であり、盗塁を得意としていた[2]。
- ^ Cardinals Sign Well-Traveled Freddie Bynum THE CARDINAL NATION.COM
- ^ “オリックスが「マルチ助っ人」獲得へ - 野球ニュース” (日本語). nikkansports.com. 2021年9月27日閲覧。
- 1 フレディ・バイナムとは
- 2 フレディ・バイナムの概要
- 3 詳細情報
- 4 関連項目
固有名詞の分類
アメリカ合衆国の野球選手 |
ウィリー・ブルームクイスト ゴーディ・ウインディ フレディ・バイナム トラビス・ヒューズ フレッド・マークル |
シカゴ・カブスの選手 |
メル・ホール ヘンリー・ブランコ フレディ・バイナム フレッド・マークル マーベル・ウイン |
ボルチモア・オリオールズの選手 |
マーク・ヘンドリクソン アルバート・ベル フレディ・バイナム フレッド・リン センディ・レーアル |
オークランド・アスレチックスの選手 |
デイブ・リゲッティ キース・フォーク フレディ・バイナム フェリックス・ホセ オーランド・セペダ |
オリックス・バファローズの選手 |
宇都格 横山徹也 フレディ・バイナム 野村宏之 山口和男 |
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