ネッカーシュタイナハ 名前と紋章

ネッカーシュタイナハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:08 UTC 版)

名前と紋章

この街の名前は、オーデンヴァルトを流れるシュタイナハ川がネッカー川に注ぐ河口に位置していることに由来する。シュタイナハ=Steinachは>steiniger Bach<(石の小川)、すなわち「小石川」ほどの意味。Steinachを含む他の地名(例えば、Heiligkreuzsteinach)と区別できるようにNeckarsteinachとした。このタイプの初出は1465年の>Neckersteynach<[3]。市の紋章は、ミンネゼンガーのブリッガー・フォン・シュタイナハに因んで、ハープの意匠が用いられている。

地理

位置

ヒンターブルクからのネッカーシュタイナハの眺め

ネッカーシュタイナハは、交通の上でも文化的にも、ハイデルベルク付近の北部バーデンの狭いネッカー渓谷によりヘッセン州の他の部分と結びついている。この街は、他の同郡に属す市町村とともにライン=ネッカー=ドライエックに属している。ネッカー川北岸を連邦道B37号線とネッカータール鉄道が通っている。シェーナウへ向かうかつての支線沿い、城山の背後にあたる市の北西部にもう一つの入植地が設けられた。東部の市区は小さいもので、連邦道B37号線の南に造船所から発展した工業地域が位置している。

ネッカーシュタイナハの中心部は、フォアデアブルクの南東下り斜面に位置しており、城下町として14世紀には城壁で囲まれていた。この集落は北と東にシュタイナハ川、南にネッカー川、西に城山と境を接している。ネッカーシュタイナハの風景は特にネッカー川を挟んで向かい合うディルスベルク城塞との対比で特徴づけられる。

ネッカーシュタイナハのダルスベルク市区とグライン市区は北のオーデンヴァルトへ登り斜面に位置する古い入植地である。ネッカーハウゼン市区はネッカー川を3km遡った場所にある。(ハイデルベルクの西、ラーデンブルクの対岸にあたるエーディンゲン=ネッカーハウゼンの同名の地区と混同しないよう注意が必要である)

隣接する市町村

ネッカーシュタイナハは、北をヘッセン州のヒルシュホルン (ネッカー)(ベルクシュトラーセ郡)とやはりヘッセン州の市町村に属さない地域であるミヒェルブーフ、東をヒルシュホルンとシェーンブルン、南をネッカーゲミュント、西をシェーナウ(以上3市町村はいずれもバーデン=ヴュルテンベルク州ライン=ネッカー郡)と境を接している。

市の構成

2003年12月31日現在の市区別人口は以下の通り。

  • ネッカーシュタイナハ: 3,160人
  • ダルスベルク: 547人
  • グライン: 142人
  • ネッカーハウゼン: 266人

歴史

マネッセ写本に描かれたブリッガー・フォン・シュタイナハ

ネッカーシュタイナハに人が定住した最初は、おそらく先史時代にまで遡る。水と森の豊かなこの地域は狩猟と漁労に理想的な環境であり、冷たい北風や東風から護られた地形は定住するのに好適であった。7世紀にネッカーシュタイナハの周辺地域はロプデンガウに含まれ、その全域がヴォルムス司教領に属した。1142年に初めてレーエン領主としてブリッガー・フォン・シュタイナハの名が記録されている。ヴォルムス、ひいてはブリッガーとその子孫はネッカーシュタイナハに、この地の歴史と深く関わることになる4つの城を築いた。

14世紀のこの町は、領主のシュタイナハ家によって築かれた堅固な防壁に囲まれていた。これにより外壁に囲まれたフォアデアブルクと城下町は閉鎖的な城塞都市となっていた。この都市は、フォアデアブルクとヒンターブルクにそれぞれ半分ずつ属していた。1377年にネッカーシュタイナハは初めて「Stadt(都市)」と記録されているが、同時に宮中伯ルプレヒトの領主権も認められていた。1381年に初めて市役所が建設された。ここで15世紀前半に都市条例が制定されたが、その後改訂・補足された。現存する最も古い条例は1537年のものである。

ハンス3世の墓碑

シュタイナハ領主家のハンス3世は1522年に早くもルター派の信仰を公言し、ネッカーシュタイナハに早速宗教改革をもたらした。1526年にはルター派の説教師ヤーコプ・オッターがこの街に招聘されている。

三十年戦争はこの都市に甚大な被害を与えた。ティリー伯率いるカトリック連盟軍は、1621年の秋にラーデンブルクを陥落させ、ネッカーシュタイナハをも占領すると、1622年4月に対岸のディルスベルク城の包囲戦を行った。その後カトリック軍は一時的にジンスハイムまで撤退したが、ヴィンプフェンの戦いの後再びこの街に到来し宿営した。この時ペストが猛威を振るった。1631年にバイエルンの占領軍はスウェーデン軍に追い払われた。その後ペストが再びこの街を襲った。

シュタイナハ領主家が1653年に断絶した後、ヴォルムス司教区とシュパイアー司教区はレーエン管理官を派遣した。このうち、シュパイアー司教区の管理官はヒンターブルクを居館とした。1657年に司教領のレーエンは、マインツ大司教の血縁者にあたるヴォルフ・ハインリヒ・メッテルニヒ・フォン・ブルシャイトの所領となった。この際、領主の相続人から自由領をも獲得している。メッテルニヒはカトリックを墨守しており、所領ではその信仰が再び奨励された。このためネッカーシュタイナハの教会は1662年から1908年まで多宗派共同の教会となり、最大3宗派が共同使用していた。プファルツ継承戦争では、フランス軍、ザクセン軍、ブランデンブルク選帝侯軍、バイエルン軍がネッカー渓谷を往来し、宿営地にされたり、軍税を徴収されたりした。

1638年以降、多くのロマンス語地域がプロテスタント化され、このため宗教上の理由でフランスから逐われたユグノー派の人々がネッカーシュタイナハに居を定めた。この中には織工や革なめし職人がおり、先の戦争ですべてを失ったこの都市に、経済復興をもたらした。

18世紀前半のネッカーシュタイナハは、スペイン継承戦争(1701年 - 1724年)、ポーランド継承戦争(1733年 - 1738年)、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)に参軍した軍勢の宿営地や野戦病院の所在地として利用された。

1699年にネッカーシュタイナハ地方は女性も相続可能な所領としてカスパー・フーゴ・フォン・メッテルニヒ・ツゥ・ミュレナークのものとなった。ところがその後継者は1738年にネッカーシュタイナハ周辺の所領をフントハイム男爵の後継者に質入れした。フントハイム側は1744年に領主権をも手に入れ、メッテルニヒ側は担保を取り戻すことが不可能になった。両領主はそれぞれに市長を立て、領民も両派に分かれて激昂した議論を戦わせた。フーゴ・フランツ・ヴォルフガング・メッテルニヒは1750年頃にこの都市を再び平定し、領主権を統一した。しかし早くも1754年に彼が亡くなると、プファルツ選帝侯とヴォルムス司教が領主権を主張した。街はまず一旦プファルツ選帝侯領となったものの、1763年には皇帝の命令によりヴォルムスおよびシュパイアー司教本部領となった。さらに1803年には世俗化によりヘッセン領となった。

1842年から1843年エーバーバッハからハイデルベルクへの国道が建設され、このために市壁が撤去された。1878年にはネッカー川に鎖牽引式船舶航行システムが設けられ、1879年にネッカーシュタイナハを通るネッカータール鉄道が完成した。


  1. ^ Bevölkerung in Hessen am 31.12.2020 nach Gemeinden
  2. ^ Max Mangold, ed (2005). Duden, Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverl. p. 576. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ Dieter Berger: Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern. Mannheim/Leipzig/Wien/Zürich: Dudenverlag, 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 194.
  4. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. II. München/Zürich: Artemis 1983 (ISBN 3-7608-8902-6), Sp. 278-279 (Beitrag von V.Mertens). - ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』(石川敬三訳)、郁文堂、1976年、82頁。


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