ドミニカ共和国の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 00:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動先コロンブス期
紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。
スペイン植民地時代
この島に1492年、クリストーバル・コロン(コロンブス)がヨーロッパ人として初めて上陸し、「小さなスペイン」(Hispañola)島と新たに名づけた。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟バルトロメによってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。1502年にニコラス・デ・オバンドーが、エスパニョラ島総督に就任した。翌年の1503年には、スペインが植民地との貿易を統括する通商院をセビヤに設置した。その年の12月には、エンコミエンダ制をイスパニュラ島で公認した。
先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しくそのほとんどと言っていいほど死んでしまった。サトウキビのプランテーションがカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷をアフリカから連れてきて足りない労働力を補った。
1526年からベネスエラ全土がサント・ドミンゴのアウディエンシアの管轄下に置かれていたが、1717年、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が設立されるとベネスエラの行政権はまず副王領に、そして1777年以降はベネスエラ総督領に移管され、1786年にカラカスにアウディエンシアが設立されたことにより、司法権も完全に独立した。
その一方でイスパニョーラ島の統治は数世紀に渡って疎かにされ、その後イギリスのオリヴァー・クロムウェルの派遣した遠征軍による侵略の失敗などもある中、島西部が無人状態になったところに目を付けられてフランス人海賊が定住し、最終的に1697年のライスワイク平和条約により、イスパニョーラ島の西側は現ハイチのフランス領サン=ドマング、東側の3分の2がスペイン領サント・ドミンゴ、現在のドミニカ共和国となった。
ハイチの占領
その後一世紀近くスペイン領内では停滞が続いていたが、サン=ドマングで起きていたハイチ革命の波及や、フランス革命戦争最中の1795年にバーゼルの和約が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールの攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の指導者は1804年にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。
しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の1814年、パリ条約で再び東側は正式にスペイン領となるが、折からシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガスらによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴのクリオージョにも独立の気運が高まり、1821年11月30日にスペイン人ハイチ共和国として独立した。この政権はシモン・ボリーバルの指導するコロンビア共和国への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて1822年1月には再び隣国ハイチのジャン・ピエール・ボワイエに占領された(ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領)。
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- ^ 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社 pp.77-81
- 1 ドミニカ共和国の歴史とは
- 2 ドミニカ共和国の歴史の概要
- 3 再独立と再植民地化
- 4 トルヒーヨ時代
- 5 関連項目
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