チェリャビンスク 歴史

チェリャビンスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 09:50 UTC 版)

歴史

1736年にチェリャバ要塞が現在のチェリャビンスクの場所に建設された。この地名は、ウラル地方に住むテュルク系民族の言葉であるチェリャビ(高貴な)からきている。この要塞は行政の中心であると同時にテュルク系民族に対する軍事拠点でもあり、エメリヤン・プガチョフの反乱軍との戦闘の舞台にもなった。1781年には市の地位を得た。

ヨーロッパとアジアの境界となるウラル山脈の東にあり、かつてはロシアの辺境の地と見られていたが、1891年シベリア鉄道の建設が始まり、シベリアの開発が進むのに合わせて大きく発展した。1913年1月1日の人口は45,000人ほどだった。

1930年代ソビエト連邦の重工業建設により「チェリャビンスク・トラクター工場」や「チェリャビンスク冶金工場」などの大工場が建ち、人口も急速に増加した。いまだ地方の小都市の域を出なかったチェリャビンスクにとっては、第二次世界大戦も拡大の機会となった。1941年独ソ戦が始まると、ドイツ軍の攻撃にさらされたヨーロッパ・ロシア西部にあったいくつもの大工場がウラル以東へ疎開し、チェリャビンスクにもレニングラードにあったS.M.キーロフ第185工場(1962年オムスクへ再移転)をはじめとする大きな工場や労働者多数が移転し、T-34戦車カチューシャ多連装ロケットランチャーなどが製造されるようになった。こうしてチェリャビンスクは「戦車町」(タンコグラード、Танкоград)と呼ばれるようになった。大戦中はグラーグ(強制収容所)があり15,000人以上が鉱山労働や道路建設、住宅建設などに従事し、戦後はドイツ軍捕虜の収容所も建設されている。 また、シベリア抑留を受けた日本人捕虜の収容所(第102収容地区)も設置され、日本人捕虜も強制労働に従事した[3]

チェリャビンスクとミアス川

1957年にチェリャビンスクから150キロメートル北西にあるオジョルスク市秘密閉鎖都市のため、当時はチェリャビンスク-65と呼ばれた)のマヤーク核兵器工場で事故が発生し、3万人を越える住民が被曝した。同市には現在[いつ?]もその後遺症が残っている。

2007年8月には上海協力機構の合同軍事演習コード名「ピースミッション2007」が行われた。

2013年2月15日、チェリャビンスク州に隕石が落下し、この衝撃波により市内だけでも3300棟の建物が被害を受け、被害総額は10億ルーブル(約31億円)を上回る見込み[4]


  1. ^ city population”. 2023年5月4日閲覧。
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
  3. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、186頁。ISBN 9784562049318 
  4. ^ “ロシア隕石落下、負傷者1200人に 直径は15メートル 隕石の大きさ、1908年以来”. 日経新聞オンライン. (2013年2月16日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG16008_W3A210C1CR0000/ 
  5. ^ Могилы знаменитостей в Челябинской области” (ロシア語). Организация похорон в Челябинскe. 2022年3月21日閲覧。


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