ジョン・ヒューストン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 15:12 UTC 版)
生涯
幼少時代
父親は俳優のウォルター・ヒューストン。ミズーリ州にて俳優一家に生まれ、3歳の時から舞台に立つ。ティーンエイジャーの頃はボクシングに熱中し、その後はメキシコを放浪して様々な職業に就いた。
脚本家から映画監督へ
後にハリウッドに落ち着いて脚本を書くようになり、『黒蘭の女』(1938年)や『ヨーク軍曹』(1941年)などの脚本を手がけてアカデミー賞ノミネート等の実績を積んだ後、1941年にダシール・ハメット原作の小説を映画化した『マルタの鷹』で監督デビューを果たした。『マルタの鷹』はハードボイルド、またはフィルム・ノワールの古典的作品となり、本作で主演を務めたハンフリー・ボガートを人気スターに押し上げた。
しかし、その頃から第二次世界大戦が激化するようになったことから1942年に陸軍に入隊。通信隊に配属され、『アリューシャン列島からの報告』といった記録映画を4本監督した。
映画監督として
1948年、ハリウッドに戻ってワーナー・ブラザースのもとで監督した『黄金』と『キー・ラーゴ』が公開される。『黄金』は、その年のワーナー社における最大のヒット作となり、アカデミー監督賞と脚色賞を受賞。父親のウォルター・ヒューストンにはアカデミー助演男優賞をもたらした。また、『キー・ラーゴ』ではクレア・トレヴァーにアカデミー助演女優賞をもたらしたものの、ワーナー社の勝手な無断編集に激怒し決別するとMGMと契約し、ケイパー映画の草分け的的作品となる『アスファルト・ジャングル』(1950年)を監督した。
1951年には『アフリカの女王』が公開。デビュー作から何度もタッグを組んできたハンフリー・ボガートと初タッグとなるキャサリン・ヘプバーンの共演とあり、映画は大ヒット。ボガートに初のアカデミー主演男優賞をもたらした。しかし、その頃のハリウッドにおける赤狩りに嫌気が指し、翌年にはアイルランドに移住してから『赤い風車』(1952年)を監督し、再び大ヒットを記録した。
1956年、長年映画化を望んでいた『白鯨』が公開。暗いテーマのため興行的には失敗したが、批評家からの評価は高く、後年にはスティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』が公開され、コンセプトが似ていることから再評価されるようになった。1958年の『黒船』では日本でロケを行った。
その後もコンスタントに作品を発表し、西部劇『許されざる者』(1960年)ではオードリー・ヘプバーンをヒロイン役で起用、『荒馬と女』(1960年)では本作が遺作となったクラーク・ゲーブルとマリリン・モンローを起用して大ヒットを記録した。
俳優としての活動
俳優としては壮年期以降、個性的なバイプレイヤーとしていくつかの作品に出演している。1963年の『枢機卿』ではゴールデングローブ賞 助演男優賞を受賞し、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。1974年のフィルム・ノワール映画『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)では、ジャック・ニコルソン演じる私立探偵ジェイク・ギテスの前に立ちはだかる下衆で非道なロサンゼルス政界の悪役ノア・クロスを演じ、映画史に残る悪役に仕上げた。他にも自分の監督作品にも出演しており、『天地創造』や『007/カジノ・ロワイヤル』にも出演している。
晩年
1975年のショーン・コネリーとマイケル・ケイン主演の『王になろうとした男』で再び高い評価を獲得。1985年のブラック・コメディ映画『女と男の名誉』では、娘のアンジェリカ・ヒューストンがアカデミー助演女優賞を受賞し、親子三代でオスカー受賞を達成した。また、自身も監督賞にノミネートされ、当時79歳で最高齢記録を樹立した。
晩年、遺作となる『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987年)を息子トニー・ヒューストンによる脚本で監督。長年ヘビースモーカーであったために当時は既に健康的にも芳しくはなく、常に酸素吸入器を付けながらの撮影だった。撮影終了後の1987年8月28日、肺気腫により81歳で他界した。本作は死後に公開された。
- ^ 大人気テレビシリーズ「アメリカン・ホラー・ストーリー」にダニー・ヒューストン出演へ - ライブドアニュース
- ^ この広告のキャッチコピー「近道なんか、なかったぜ。」は小野田隆雄が手掛けた。
- ^ ただし、ヒューストン本人はこの第43回ゴールデングローブ賞の式典に出席しておらず、代理人として彼の娘であるアンジェリカ・ヒューストンが受賞している。
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