カルカ河畔の戦い
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影響
指揮官であるジェベ、スブタイの内ジェベはモンゴル高原に帰還する途中病没するものの、スブタイは1236年に始まる「バトゥの西征」(モンゴル帝国の東欧侵攻とも呼ぶ)で副将格として再びキプチャク草原に戻り、本格的にルーシに対する征服に取り掛かることになる。
出典
関連項目
- チンギス・カンの西征
- モンゴルのルーシ侵攻
- 移動式城砦(Tabor)
- ^ Gabriel, Subotai The Valiant: Genghis Khan's Greatest General, p. 95.
- ^ 海老澤哲雄、宇野伸浩「C.de Bridia による Hystoria Tartarorum 訳・注(1)」『内陸アジア言語の研究』第10号、1995年、48頁“この川は、現在アゾフ海北岸のタガンログ湾 (Таганрог)に注いでいるカルミウス川 (Кальмиус) の支流の一つであるカルチク川に当たるとするが、フェンネル氏は、カルミウス川の支流であると述べるに止まり、支流のどれであるかは特定していない。” NAID 120004850137
固有名詞の分類
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