ウルグアイの歴史 スペイン植民地時代(1516年-1811年)

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ウルグアイの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/05 07:14 UTC 版)

スペイン植民地時代(1516年-1811年)

1492年にクリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸を「発見」すると、南北アメリカ大陸全体にヨーロッパ人の征服者が押し寄せた。現在のウルグアイに相当するラ・プラタ川の河口部にも、1516年にスペイン探険家フアン・ディアス・デ・ソリスが初のヨーロッパ人として到達した[1]。しかし、先住民を征服しようとしたソリスは、逆にチャルーア族に殺害されてしまった。1519年にはフェルナン・デ・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)の船団がこの地を訪れ、1526年のセバスティアーノ・ガボートの探検隊が後に続き、ガボートはパラナ川にまで到達した[1]。ヨーロッパ人の到来以降、この地の住民はインディオ[註釈 1]と呼ばれるようになった。

平坦な丘陵が続き、特に鉱物資源が無く、チャルーア人のような強力なインディオが支配していたこの地はスペイン植民地の中でも特に植民が遅れることになったが、1574年にはスペイン人による初の入植地であるサン・サルバドルが現在のドローレス英語版に建設された。その後1603年にスペイン人がを放牧すると、以降この地には爆発的に野生の牛馬が増殖し、やがてこれを取り合ってのスペイン、ポルトガル両国の争いが始まり、バンダ・オリエンタルウルグアイ川東岸地帯)は両国の係争地帯となった。こうした中で、1624年に現在まで残る最初の村落ヴィジャ・ソリアーノ英語版が、スペインのイエズス会伝道団によってネグロ川とウルグアイ川流域(現ソリアノ県西部)に建設された。

南米に於けるスペインとポルトガルの抗争は、現在のパラグアイ一帯に存在したイエズス会の布教村落ポルトガル領ブラジル英語版から侵入した奥地探検隊バンデイランテスが襲撃し、はじめて住民のグアラニー系インディオをブラジル奴隷として連行した1629年より激化し[2]、1641年にポルトガル勢力がムボロレーの戦いスペイン語版でイエズス会に敗北してからは一時的な小康を見せたが[3]、1680年にブラジルから侵入したポルトガル人が、トルデシリャス条約を無視して、ブエノスアイレスとの密貿易のためにコロニア・ド・サクラメントを建設したことによってこの争いは再び激化した[4][5]。コロニアは密輸の拠点として栄え、幾度もスペインとポルトガルの間で帰属を変えた。1726年にブエノスアイレス総督ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラスペイン語版は、コロニアのポルトガル人に対向するために、ラ・プラタ川河口の東岸にモンテビデオを建設した[6]。1750年のマドリード条約英語版によってスペインはコロニア・ド・サクラメントを得る代わりにその他の全てのバンダ・オリエンタルを放棄し、1761年のエル・パルド条約でコロニアをも放棄したが、最終的に1777年のサン・イルデフォンソ条約により、バンダ・オリエンタルと全ミシオネスのスペイン領有が確定した[7]。また、ウルグアイ川東岸の7つの布教村落の帰属を巡って、1754年と1756年にイエズス会士と伝道地のグアラニー人がスペイン、ポルトガル勢力を相手にグアラニー戦争英語版を起こしている[8]。この事件の後、スペイン領からイエズス会が追放されたのは1767年であった[9]

このスペインとポルトガルの係争の最中に入植したスペイン人は、土着化してクリオーリョとなった。バンダ・オリエンタルには家内奴隷としてアフリカから極少数の黒人が連行され、スペイン人とポルトガル人の戦いの最中にもチャルーア人をはじめとするインディオ諸族とクリオーリョの戦いが続いた。家畜を追って生計を立てるガウーチョと呼ばれる人々も登場し、彼等による独自の文化様式が栄えた。

18世紀のモンテビデオ

1776年にはカルロス3世によるボルボン改革によって、ペルー副王領から現在のアルゼンチンウルグアイパラグアイボリビアを包括する地域がブエノスアイレスを主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領として分離され[10]、モンテビデオはブエノスアイレスに次ぐ副王領内で第二の港として成長することになった。18世紀後半になると、ブエノスアイレスのクリオーリョ達は自由貿易を望むようになった[11]

1789年にフランス革命が勃発してヨーロッパの政情が大混乱に陥ると、本国スペインがフランスと同盟したため、1806年にイギリス軍がラ・プラタ地域を侵略英語版し、ブエノスアイレスから撤退してきたイギリス軍によりモンテビデオが占領されたが、ブエノスアイレスではポルテーニョ英語版民兵隊によってイギリス軍が破られ、1807年にイギリス軍は撤退した[12]。この戦いにより一時的に自由貿易を経験したポルテーニョ達の間には、自由貿易実践への欲望と、更なる自治への自信が芽生えた[13]

1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがスペイン国王のフェルナンド7世を追放して、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した[14]。フェルナンド7世の退位を認めなかったポルテーニョ達は、1810年5月にブエノスアイレスでカビルド・アビエルト(開かれた議会)を開き、五月革命が達成されてコルネリオ・サーベドラやマリアーノ・モレーノをはじめとするクリオーリョがスペイン人から権力を奪取したが、バンダ・オリエンタルはコルドバパラグアイアルト・ペルーと共にブエノスアイレスのこの措置を認めなかった[15]


註釈

  1. ^ 当時のスペイン語インド人を意味した。
  2. ^ 奴隷制の続いていたブラジルはパラグアイ人の捕虜を奴隷にした。
  3. ^ エスタジオ・ド・マラカナンでウルグアイは逆転優勝したが、ホームでの敗北にブラジル人は大ショックを受け、「マラカナンの悲劇」と呼ばれる事件に発展した。

出典

  1. ^ a b 増田編(2000:59)
  2. ^ 伊藤(2001:85-89)
  3. ^ 伊藤(2001:100-103)
  4. ^ 増田編(2000:157-158)
  5. ^ 伊藤(2001:119-123)
  6. ^ 伊藤(2001:202)
  7. ^ 増田編(2000:166-168)
  8. ^ 伊藤(2001:213-224)
  9. ^ 伊藤(2001:236)
  10. ^ 中川、松下、遅野井(1985:252)
  11. ^ 増田編(2000:177-178)
  12. ^ 中川、松下、遅野井(1985:253)
  13. ^ 中川、松下、遅野井(1985:252-253)
  14. ^ 増田編(2000:183-185)
  15. ^ 中川、松下、遅野井(1985:253-255)
  16. ^ 中川、松下、遅野井(1985:258-259)
  17. ^ a b 中川、松下、遅野井(1985:259)
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  21. ^ ガレアーノ/大久保訳(1986:216)
  22. ^ 中川、松下、遅野井(1985:266)
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  61. ^ 中川、松下、遅野井(1985:391-392)
  62. ^ a b 中川、松下、遅野井(1985:392)
  63. ^ 中川、松下、遅野井(1985:393)
  64. ^ 増田編(2000:440)
  65. ^ a b 中川、松下、遅野井(1985:394)
  66. ^ 中川、松下、遅野井(1985:61)「便覧」
  67. ^ ガレアーノ/大久保訳(1986:24-30)
  68. ^ 増田編(2000:452)
  69. ^ 後藤(1993:165-166)
  70. ^ 増田編(2000:453-454)
  71. ^ 増田編(2000:454)





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