ウルグアイの歴史 独立戦争(1811年-1828年)

ウルグアイの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/05 07:14 UTC 版)

独立戦争(1811年-1828年)

連邦同盟の代表者、ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス英語版。ブエノスアイレスの中央集権主義に対抗し、連邦同盟の諸州の先頭に立って戦い続けた。アルゼンチンの国旗に連邦主義の赤を加え、アルティーガスの旗を制定した。ウルグアイでは建国の父と呼ばれている。
1816年のリオ・デ・ラ・プラタ連合州の勢力地図。青はトゥクマン議会英語版によって成立したブエノスアイレス政府。赤はアルティーガスの連邦同盟。
連邦同盟の旗。

ブエノスアイレスから追放されたラ・プラタ副王は、五月革命を認めなかったバンダ・オリエンタルの首都モンテビデオに移転し、ハビエル・エリオが新たに副王となり、1811年2月にブエノスアイレス政府に対して宣戦布告した[16]

しかし、同年ブエノスアイレスの独立運動と呼応した、バンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス英語版が民兵隊を率いて蜂起し、バンダ・オリエンタルでも独立運動が始まった[17]。アルティーガスはモンテビデオを包囲したが、10月にブエノスアイレス政府がアルト・ペルー攻略のために副王と休戦すると、バンダ・オリエンタルとブエノスアイレスの独立運動に相互の齟齬が生じた[17]。1813年6月のリオ・デ・ラ・プラタの憲法制定議会には、アルティーガス派の代表の出席は認められず、ここに来てバンダ・オリエンタルとブエノスアイレスの対立は決定的なものになった[18]。1814年6月にはブエノスアイレス軍が王党派からモンテビデオを攻略したが、これに呼応して同年にアルティーガスは東方州を拠点に、コルドバ州サンタフェ州エントレ・リオス州コリエンテス州と共に連邦同盟を創設し、1815年1月にはアルティーガス派がモンテビデオをブエノスアイレス軍から攻略し、6月29日にスペインからの独立を宣言した。また、同年パイサンドゥーに野営していたアルティーガスによって、東方州ではラテンアメリカ初となる農地改革令が発令された[19]。スペインの哲学者ホベジャーノススペイン語版英語版の思想的影響を受け、工業化と国民統合の進展を視野に入れた農地改革令によって[20] 、国外に亡命していた不在地主のラティフンディオが没収され、「主たる権利」を有するインディオや貧しい愛国者に分配された[21]

このように、リオ・デ・ラ・プラタ副王領全域に各州が対等の権利を持ったアメリカ合衆国のような国家を創設し、連邦主義と保護貿易を図るアルティーガス派と、ブエノスアイレスによる中央集権と自由貿易を図るブエノスアイレスの対立は激しさを増し、1816年7月16日にブエノスアイレス主導でリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言されたトゥクマン議会英語版が開かれたが、アルティーガス派の代表は出席せず、8月にポルトガル軍がブラジルから侵攻すると(Invasión luso-brasileña)、アルティーガス軍は厳しい立場に立たされ、ブエノスアイレス軍とポルトガル軍を敵に回してゲリラ戦を続けることになった。1817年にはポルトガルのレコール将軍によってモンテビデオが攻略され、アルティーガス派はその後も抵抗を続けたが、ブエノスアイレスがポルトガル軍の侵攻を黙認したために後が無くなったアルティーガスは、1820年にタクアレンボーの戦いスペイン語版で破れ、パラグアイに亡命した。

33人の東方人の誓い。
フアン・アントニオ・ラバジェハ英語版

1820年にアルティーガス軍がポルトガル=ブラジル連合王国軍に敗れると、1821年に東方州はシスプラチナ州(ラ・プラタ川手前の州の意)としてポルトガル・ブラジル連合王国の一部となった[22]。アルティーガスの失脚後、ブラジルと結んだモンテビデオの寡頭支配層によって農地改革や保護貿易は取り消され、バンダ・オリエンタルで大土地所有制度が復活した[23]

一方、ラ・プラタ川の西側でも1820年に反乱軍と政府軍が激突したセペーダの戦いスペイン語版によりラ・プラタ連合州の中央政府は崩壊し、以降暫く無政府状態が続いたが、次第に東方州のブラジルへの編入を見逃したことへの批判と、連合州への奪還の声がリトラル三州を中心にした旧連邦同盟の諸州に上がり、1825年1月に連合州は基本法を制定してブエノスアイレス州に外交権を移譲した[24]。同年、元ブエノスアイレス内務大臣だった中央集権派のベルナルディーノ・リバダビアが連合州の初代大統領に就任し、戦争の準備が整うと、フアン・アントニオ・ラバジェハ英語版将軍に率いられてブエノスアイレスから潜入した33人の東方人がブラジル帝国に対してゲリラ戦を展開し、フロリダ会議で東方州の独立と、リオ・デ・ラ・プラタ連合州との合併を宣言した[25][26]。ブラジル皇帝ペドロ1世は激怒し、同年ブラジルが連合州に宣戦布告したことによりシスプラティーナ戦争が勃発した[27]

戦争の最中に連合州は国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)に改名していたが、アルゼンチン=東方州連合軍は順調に勝利を重ね、1827年2月のイツサンゴの戦いスペイン語版での勝利によりアルゼンチンの優位は決定的になった。しかし、アルゼンチン内での連邦派と統一派の対立、特にリバダビアの採った中央集権憲法とブエノスアイレスの連邦直轄首都化は国内全ての層の猛反対を呼び、とても戦争が継続できる状態ではなくなったため、1828年4月28日にイギリスの仲介でモンテビデオ条約が結ばれた[28]。この条約ではラ・プラタ川の両岸を領有することでアルゼンチンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの意向が強く反映され、その結果1828年8月にバンダ・オリエンタルはウルグアイ東方共和国として独立を果した[29]

文化面においては、連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴスペイン語版によってガウチョ文学英語版が創始された。イダルゴはガウチョを古いヨーロッパを克服しようとする存在として描き[30]、イダルゴによってイスパノアメリカの詩はヨーロッパから分岐した[31]


註釈

  1. ^ 当時のスペイン語インド人を意味した。
  2. ^ 奴隷制の続いていたブラジルはパラグアイ人の捕虜を奴隷にした。
  3. ^ エスタジオ・ド・マラカナンでウルグアイは逆転優勝したが、ホームでの敗北にブラジル人は大ショックを受け、「マラカナンの悲劇」と呼ばれる事件に発展した。

出典

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  12. ^ 中川、松下、遅野井(1985:253)
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  17. ^ a b 中川、松下、遅野井(1985:259)
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  65. ^ a b 中川、松下、遅野井(1985:394)
  66. ^ 中川、松下、遅野井(1985:61)「便覧」
  67. ^ ガレアーノ/大久保訳(1986:24-30)
  68. ^ 増田編(2000:452)
  69. ^ 後藤(1993:165-166)
  70. ^ 増田編(2000:453-454)
  71. ^ 増田編(2000:454)





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