ウォルター・スコット 生涯と作品

ウォルター・スコット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 06:53 UTC 版)

生涯と作品

生い立ち

1771年、エディンバラに生まれる。父は同名の弁護士ウォルター・スコット、母のアン・ラザフォードはエディンバラ大学医学部教授ジョン・ラザフォード英語版の長女、祖先はバクルー公爵スコット家、つまりスチュアート朝の庶流の分流である。ウォルターは12人兄弟の9番目だったが、兄弟のうち6人は幼くして亡くなっている。3歳の時に小児麻痺で左足が不自由になり、療養のためロクスバラ州のスメイルホルムという農村にある大きな農場を持つ祖父母の家で過ごし、このスコティッシュ・ボーダーズ地域で古い史譚や、祖母の語って聞かせるバラッドを楽しみとし、また読み書きを学び、読書にも親しんだ。1778年にエディンバラのグラマースクールに入学、語学を得意とし、文学と歴史に関心を持った。1783年12歳の時にエディンバラ大学古典学科に入学、イタリアの詩人の作を耽読した。1785年に健康のために大学を中退して、父の法律事務所で働き、1792年に弁護士資格を得る一方で、トマス・パーシー英語版『英国古詩拾遺』に刺激を受け、地方の伝説やバラッドなどの蒐集に励んだ。

ゲーテビュルガードイツ語版シラーなどドイツロマン派文学に惹かれ、1796年にビュルガーの『レノーレ』、1799年にゲーテ『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の英語訳を出版した。次いで『ミンストレルジー・オブ・スコティッシュ・ボーダー』を出版する。1797年にはフランス革命戦争に備えて騎兵義勇隊を結成して訓練に励んだ。この年、兄や友人とイングランド西北部のカンバーランドへ旅行し、そこでフランスからの亡命者ミス・シャーロット・シャーパンティアに出会って結婚して、この地に住み、翌年にはエディンバラの南のラスウェイド英語版に移った。1799年にはセルカーク州知事代理に任命される。

詩作時代

かつての級友で出版事業を営むジェームズ・バランタイン英語版に出版業を勧め、やがて出資者、共同経営者となって、1802年から1803年にかけて『スコットランド歌謡集』全3巻を出版する。1804年にスコットランド旅行中のウィリアム・ワーズワースと知り合い、以後終生の友人となる。弁護士を続けながら、1804年から1812年までシェルカーク州ツイード河畔エトリック・フォレスト英語版アシェスティール英語版の農家に住み、1805年に法廷弁護士を辞めて、翌1806年からスコットランド最高民事裁判所の高級書記官となり、生涯にわたって務めた。後にセルカーク州の司法行政長官も務める。

1805年に出版した物語詩『最後の吟遊詩人の歌』がワーズワースを初めとして評価され、名声を高めた。17世紀の詩人ジョン・ドライデンの全集の編集を行いながら、物語詩、叙事詩の創作に力を注ぎ、『マーミオン』『湖上の美人』などを発表する。1811年にアボッツフォードの邸宅英語版を購入した。

1813年にヘンリー・ジェイムズ・パイの後を受けて桂冠詩人に擬せられたが、これを辞退して後輩のロバート・サウジーを推薦した。

小説の時代

エディンバラにあるスコット記念塔

戦争の影響でバランタインの出版社の経営が悪化し、救済のために歴史小説『ウェイヴァリー』を1814年に無署名で発表、これが好評だったために、その後次々と歴史小説を発表する。続く作品で「ウェイヴァリーの著者によって」と巻頭に記したことから、スコットの小説の総称として「ウェイヴァリー小説群 (Waverley Novels)」という呼び名が生まれた。1820年にジョージ4世からサーの称号を与えられ、また同年エディンバラ学士院英語版院長に推戴された。

バランタインの出版社は1826年に破産を宣告され、スコットはその債務の返済のために作品を書き続け、大作『ナポレオン伝』(1827年)などを執筆した。1830年に卒中を起こし、1831年に保養のためナポリに滞在したが、数か月後に孫の死を知ってアボッツフォードに帰郷し、その数週間後に死去した。ドライバラ寺院英語版のスコット家墓地に葬られた。

代表作として叙事詩『湖上の美人』(1810年)、歴史小説ウェイヴァリー英語版』(1814年)、『ロブ・ロイ英語版』(1817年)、『ランメルモールのルチア』の原作となった歴史小説『ランマームーアの花嫁英語版』(1819年)、『アイヴァンホー』(1820年)など。「ウェイヴァリー小説」の作者であることを公表したのは1827年にだった。『ミドロジアンの心臓』(1818年)はポーティアス騒動英語版におけるヘレン・ウォーカーという実在した女性の行動を題材にしたもので、スコットはその後の1831年に、ヘレンの埋葬されているアイアングレーの教会墓地に墓石を建て、墓碑銘を刻んだ[1]

ウォルター・スコットの肖像はスコットランド銀行発行のすべての紙幣に使用されている。

ペンネームで執筆することを好み、"The Great Unknown"と呼ばれた。スコットを「現代のシェイクスピア」と慕っていたワシントン・アーヴィングも、スコットに倣ってペンネームを多用した。

アボッツフォード邸

アボッツフォード, ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット1844年撮影

スコットは1811年にスコティッシュ・ボーダーズの真ん中メルローズ近郊に110エーカーの土地を購入し、翌年から移住し、1824年にゴシック調の大規模な邸宅を完成させ「アボッツフォード邸英語版」と呼んだ。この邸宅はヴィクトリア朝時代の建築に大きな影響を与えたと言われている。ワシントン・アーヴィングは、イギリス滞在中の1817年に、詩人トマス・キャンベル英語版の紹介状を得てアボッツフォード邸を訪問し、その時の随想『ウォルター・スコット邸訪問記』[2]Abbortsford、『クレヨンの雑録集』(The Crayon Miscellany, 1835年)所収)を執筆した。

現在は資料館として一般公開され、図書室には9千冊の蔵書が所蔵している。


  1. ^ 『ミドロジアンの心臓』緒言(岩波文庫、玉木次郎訳)
  2. ^ アーヴィング『ウォルター・スコット邸訪問記』齊藤昇訳(岩波文庫、2006年)






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