イングランド・フランス二重王国 イングランド・フランス二重王国の概要

イングランド・フランス二重王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 21:08 UTC 版)

シャルル7世の父シャルル6世は、1420年5月21日に調印したトロワ条約で、娘婿であるイングランド国王ヘンリー5世とその子孫にフランス王位を与えることを取り決めた。そのシャルル6世が死去した1422年10月21日に、この王国は始まった。これはフランス王位を継承するはずであった正当なる嫡子王太子シャルルを除外するものであった。条約はフランスの三部会で批准されていたにもかかわらず、フランスの王位は譲渡することが出来ないとする、かつて布告された王位継承法と矛盾していた。ヘンリー5世の息子であるヘンリー6世はイングランドとフランスの両国王となったが、イングランドとブルゴーニュ公国1435年まで)のみがヘンリー6世をフランス王アンリ2世として認めた[1] [2][3][4][5][6][7]。ヘンリー6世は1431年12月16日にフランス王として戴冠した。

フランス王としてのヘンリー6世のデ・ジュリの主権と正当性はイングランド及び自らのフランス統治議会下での同盟・ないしは支配下にあるフランスの領域のみから認められた。他方、王太子がフランス王として支配しているところはロワール一帯の南部であった。

シャルル7世は、自らの使命をイングランドからフランスを解放し、かつ王太子をランスで戴冠させるのを信じるジャンヌ・ダルクの支援によって1429年7月19日にランスにて戴冠した[8][9]1435年ローマ教皇の使節によってヘンリー6世への義理立てから解放された[10] ブルゴーニュ公フィリップ善良公はシャルル7世を正統なるフランス王と見做した[1]。この有力なフランス貴族の裏切りによって、ヘンリー6世のフランス統治は事実上終わりに達した[11]。百年戦争を終結させることになった1453年7月17日カスティヨンの戦いでフランスが最終的な勝利を収めたことで、二重王国状態に終止符が打たれた。イングランドはカレーを除くフランス領の全てを喪失した。

1453年までにシャルル7世は唯一のフランス王となった。

背景

イングランド王家フランス王家は、フランスの世襲の主権を巡って絶え間なく争ってきた。百年戦争1337年1453年)は拡大し、両国の戦闘はたいてい数年の一定した休戦を挟んで断続的に行われた。最初の時代はクレシースロイス等の著名な戦闘における大勝によって、エドワード3世の勝利に終わった。エドワード3世の息子エドワード黒太子1356年ポワティエの戦いフランス王ジャン2世善良王を捕え、フランス軍を敗走させた。1360年は最初の時代の終了と和平への機会を印象付けた。

プレティニ・カレー条約でフランス王は、王国の歳出の2倍に匹敵する身代金を条件に釈放された。加えて、フランス王はエドワード3世にアキテーヌを譲渡した。このようにしてエドワード3世は以前のアンジュー帝国の主要な公国の一つを回復したのである。しかしエドワード3世は、自らの母イザベラの出自を根拠とする正当なるフランス王の称号を諦めなければならなかった。シャルル5世賢明王はフランス王位を継承し、フランス側の宣戦布告で1369年に交戦状態に陥り、和平は破られた。この時はイングランド側が戦略的敗北に陥った。シャルル5世の戦略は城を攻撃することであり、そこではイングランドの勝利は以前のように容易ではなかった、そしてフランス王はイングランドとの戦争を極力避けた。この重要な戦略によって、イングランドはアキテーヌなど掌握していた多くの領域を失ったが、ガスコーニュは保持した。年老いたエドワード3世はもはや戦場に出て戦える状態ではなかった。エドワード黒太子は父王より先に死去していたため、1377年にエドワード3世が死ぬと黒太子の息子リチャード2世イングランド王となった。

1396年に、リチャード2世がフランス王シャルル6世狂心王の娘イザベラと結婚したことで和平が結ばれ、第2の時代は終わった。しかし平和は長く続かなかった。1399年にリチャード2世がアイルランドにいる間にヘンリー4世が王位を簒奪し、1403年にフランス側の敵意を引き起こしたのである。かくして戦争の第3段階の火蓋が切られた。

ランカスター家と英仏関係

当初、ヘンリー4世は自領であるランカスター公領に隠遁することを主張し、リチャード2世に対して「貴方の王位を剥奪する望みも権利もない」と書き送った。にもかかわらず、ヘンリー4世は自らの王位を着実にし、リチャード2世は廃位された。国内の争いはヘンリー4世下の統治でのウェールズにおけるオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)及び北部のパーシー一族(ヘンリー4世の古い支持者であった)の反乱で頂点を迎えた。しかし、ヘンリー4世は政治的立場を固めていった。内戦はフランスでも同じく、アルマニャック派ブルゴーニュ派の争いという形で勃発していた。シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイブルゴーニュ公ジャン無怖公の指示で暗殺された。このことは当初は風聞に過ぎなかったものが、ブルゴーニュ公国にはスキャンダラスな出来事であり、後にシャルル7世勝利王を巻き込むことになった。内戦を制するためにはヘンリー4世は重要な同盟相手と見做されていた。そのためアルマニャック派は見返りとしてアキテーヌのイングランドへの返還まで申し出て、ヘンリー4世に軍事支援を求めた。(もっとも実際にアルマニャック派が勝利した時にはアキテーヌの件は忘れられたが。)ヘンリー4世は1412年にアルマニャック派を支援するための遠征軍を派遣した。

両派が互いに迫害する形で内戦は続き、アルマニャック派によってソワソンは略奪され、ブルゴーニュ派によってパリは掌握された。ジャン無怖公は若い王太子シャルルと狂気の王シャルル6世の摂政であると主張した。1413年簒奪者ヘンリー4世は死んだ。王位を継いだのは息子のヘンリー5世である。


  1. ^ a b Charles, John Foster Kirk, History of Charles the Bold, duke of Burgundy, (J.B. Lippincott & Co., 1863), 36.
  2. ^ Patrick, James, Renaissance and Reformation, (Marshall Cavendish, 2007), 601.
  3. ^ Neillands, Robin, The Hundred Years War, (Routledge, 1991), 263.
  4. ^ Morgan, Kenneth O., The Oxford Illustrated History of Britain, (Oxford University Press, 2000), 200.
  5. ^ Oman, Charles William Chadwick, The History of England, from the Accession of Richard II to the Death of Richard III (1377-1485), (Longmans, Green, and Co., 1906), 316-317.
  6. ^ Hare, Christopher and Mare Andrews, The life of Louis XI, (C. Scribner, 1907), 15-16.
  7. ^ Thackeray, Frank W., Events that changed the world through the sixteenth century, (Greenwood Publishing Group, 2001), 57.
  8. ^ Gower, Ronald Sutherland, Joan of Arc, (BiblioBazaar, LLC, 2008), 21.
  9. ^ Williams, Jay, Joan of Arc, (Sterling Publishing Company, 2007), 11.
  10. ^ Harriss, Gerald, Shaping the Nation, (Oxford University Press, 2007), 567.
  11. ^ Andrews, Allen, Kings and Queens of England and Scotland, Marshall Cavendish Publications Ltd., London, 1976, p. 82.
  12. ^ Henry V, the Typical Medieval Hero, Charles Lethbridge Kingsford, C.P. Putnam's Sons, London, New York, 1901






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