イングランド・フランス二重王国 戦士王ヘンリー5世

イングランド・フランス二重王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 21:08 UTC 版)

戦士王ヘンリー5世

ヘンリー4世の治世の主な特徴は「内戦と反乱」だったため、ヘンリー5世は若い頃から父王を助けて戦闘に参加していた。ヘンリー5世の戦闘における最初の試練はウェールズで起きた。1403年シュルーズベリーの戦い英語版の指揮を執ったのである。この戦いで、ウェールズ軍の放った矢がヘンリー5世の頬を貫いた。ヘンリーは重体で意識も混沌としていたが戦場を離れず、イングランドの勝利をかち取った。

ヘンリー5世はこれらの優秀なイングランド・ウェールズの弓兵を、大規模な形で彼らをアジャンクールの戦いで活用した。ウェールズ人の独立精神を抑えつつ、ウェールズの城は一つ一つ落されていった。ヘンリー4世が死ぬと、ヘンリー5世の弟クラレンス公トマスが相続人として兄よりも支持された。フランス王太子はイングランド領であったガスコーニュギュイエンヌ公となった。アルマニャック派がガスコーニュを自らの主権下に置こうとしていることを仄めかしているのは明白であった。クラレンス公はイングランドからガスコーニュへ向かったが、ヘンリー5世はイングランドにとどまった。これはヘンリー5世がイングランド王位を獲得する絶好の機会であった。正確に言うと、クラレンス公がガスコーニュにいる間にヘンリー5世はイングランド王位についたのである。ヘンリー5世は同時に、フランス王太子が思い描いていたギュイエンヌ統治をかわすことに成功した。1413年にヘンリー5世は統治を開始したが、フランスの内戦は続いたままであった。ヘンリー5世はフランス王に拡大したアキテーヌ、ノルマンディープロヴァンスの港、アンジュー帝国に臣従を誓っていたかつてのトゥールーズ伯領、メーヌアンジュー地方を要求した。フランスはこれを拒否し、無視した。28歳になった1415年にヘンリー5世はアジャンクールの戦いに集約されるフランスへの侵攻を開始したのである。

1415年の遠征

1415年8月11日にヘンリー5世はフランスへ渡り、アルフルールフランス語版英語版の要塞を包囲して9月22日に落とした。その後、ヘンリー5世軍はフランスの辺境をカレーに向かって行軍しなければならなかった。1415年10月25日アジャンクール村付近の平原でイングランド軍はフランス軍を迎え撃った。イングランド軍は消耗し、兵力では遥かに劣っていたにもかかわらず、ヘンリー5世は数千人を討ち取ることでフランス軍に決定的な打撃を与えた。イングランド側からの観点では、この勝利は遠征の第1段階に過ぎなかった。

イングランドの人々よ、聖クリスピヌスの祝日(10月25日)の輝かしい勝利における汝らのの働きと祈りを止めよ。彼らのイングランドの男達の名声への嘲りにもかかわらず、フランスの悪評は失墜した。

このラテン語の警句は戦争後に多くの生み出された物の一つであり、年代記などの長い口承に由来する。

1417年の遠征

アジャンクールの勝利から2年間辛抱強く準備して、ヘンリー5世は1417年に大規模な形で戦争を再開した。低ノルマンディーはすぐに征服され、ルーアンはパリから切り離されて包囲された。フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で麻痺していた。ヘンリー5世は両派に対して軍事的接近を怠ることなく、巧みに互いを争わせた。1419年1月にルーアンは陥落した。抵抗するノルマンディーのフランス人は厳しく弾圧された。イングランド軍捕虜を壁で絞首刑にしたアラン・ブランシャルは同じ方法で処刑された。イングランド国王を破門したルーアン律修司祭のロベール・ド・リヴェは、イングランドに連行されて5年間投獄された[12]。この戦争中、ノルマンディーでは唯一モン・サン=ミシェルが包囲されながらも篭城戦を耐え切った。

ヘンリー5世カトリーヌとの結婚式。

同年8月までにイングランド軍はパリに迫った。フランス党派の謀略はモントルーにおける、王太子支持派によるジャン無怖公暗殺(1419年9月10日)で頂点に達した。新たなブルゴーニュ公フィリップ善良公はヘンリー5世と結んだ。6ヶ月に及ぶ交渉の後、ヘンリー5世をフランスの王位継承者及び摂政と認めるトロワ条約が締結され、1420年6月2日にヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚した。6月から7月にかけてヘンリー5世の軍勢はモントルーの城を包囲攻略し、更に11月にはムーランを落とし、その後短期間の後に再びイングランドへ帰国した。翌年にヘンリー6世が生まれている。

1421年の遠征

1421年6月10日にヘンリー5世はフランスへ渡ったが、これが最後の遠征となった。7月から8月にかけてヘンリー5世の軍はドルーを包囲・攻略してシャルトルの軍と連携した。10月にヘンリー5世の軍はモーを包囲して1422年5月2日に占領した。ヘンリー5世は1422年8月31日、パリ付近のヴァンセンヌ城で急死した。原因はモー包囲中に感染した赤痢であることが明らかになっている。35歳であった。死の前にヘンリー5世は弟のベッドフォード公ジョンを生後数ヶ月に満たないヘンリー6世のフランスにおける摂政に任命した。ヘンリー5世自身は、自らの王位が確約されたトロワ条約に則って生きた状態でフランス王に戴冠することは叶わなかった。ヘンリー5世を自らの後継者に指名した病弱なシャルル6世は、ヘンリー5世よりも数ヶ月生き延びた。前年に生まれたヘンリー6世は、父からイングランド王位を、数ヵ月後には祖父からフランス王位を継承した。イングランド王ヘンリー6世ないしフランス王アンリ2世という一人の君主の許で連合体制が敷かれた。


  1. ^ a b Charles, John Foster Kirk, History of Charles the Bold, duke of Burgundy, (J.B. Lippincott & Co., 1863), 36.
  2. ^ Patrick, James, Renaissance and Reformation, (Marshall Cavendish, 2007), 601.
  3. ^ Neillands, Robin, The Hundred Years War, (Routledge, 1991), 263.
  4. ^ Morgan, Kenneth O., The Oxford Illustrated History of Britain, (Oxford University Press, 2000), 200.
  5. ^ Oman, Charles William Chadwick, The History of England, from the Accession of Richard II to the Death of Richard III (1377-1485), (Longmans, Green, and Co., 1906), 316-317.
  6. ^ Hare, Christopher and Mare Andrews, The life of Louis XI, (C. Scribner, 1907), 15-16.
  7. ^ Thackeray, Frank W., Events that changed the world through the sixteenth century, (Greenwood Publishing Group, 2001), 57.
  8. ^ Gower, Ronald Sutherland, Joan of Arc, (BiblioBazaar, LLC, 2008), 21.
  9. ^ Williams, Jay, Joan of Arc, (Sterling Publishing Company, 2007), 11.
  10. ^ Harriss, Gerald, Shaping the Nation, (Oxford University Press, 2007), 567.
  11. ^ Andrews, Allen, Kings and Queens of England and Scotland, Marshall Cavendish Publications Ltd., London, 1976, p. 82.
  12. ^ Henry V, the Typical Medieval Hero, Charles Lethbridge Kingsford, C.P. Putnam's Sons, London, New York, 1901






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