イラワジ会戦 評価

イラワジ会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 05:51 UTC 版)

評価

両軍司令官の統帥

木村兵太郎方面軍司令官は当初、田中参謀長を信任していた。しかしイラワジ会戦が敗勢になるにつれ田中参謀長を信頼しなくなり、自らがリーダーシップをとるようになった。司令官と参謀長のギクシャクした関係はのちのラングーン放棄にも尾を引いている。

スリムは木村を「非常に高度な現実主義と道徳的勇気を持っている指揮官」[16]と評し、英軍に有利なシュエボで決戦しなかった[3]、メイクテーラ危機を感じるや速やかに同方面に傾注した[17]と称賛している。シュエボでの遅滞行動は田中参謀長の指導によるものであったが、2月以降の作戦指導は木村司令官自身によるものであり、第15軍の要求するメイクテーラ戦移行も田中参謀長の反対を排して木村が決断したものである[18]

一方のウィリアム・スリム軍司令官は、在ビルマのイギリス軍を立て直し日本軍を叩きつぶしたとして第2次大戦における偉大な将軍の一人といわれている[19]。イラワジ会戦においては、ニャングへの奇襲的渡河によって日本軍の作戦を根底から覆し大戦果を得た。エドワード・ヤングは『孫子』の「およそ、戦いは正をもって合い、奇をもって勝つ」[20]を引用して、木村将軍はマンダレーへの攻撃(正)を予期し、スリムもこれを行ったが、メイクテーラへの攻撃(奇)は予期せぬものであった。奇をともなう正の使用によってスリムは木村を屈服させたと述べている[21]

200両か2000両か

メイクテーラに突進する英印軍機甲部隊について、第1線部隊は2000の車両が進撃中との報告を行った。これに基づき、第15軍はイラワジ河方面は守勢に転じ、メイクテーラ方面に対処するべきとの意見具申を方面軍に打電した。ところが、方面軍参謀部[22]には200両という電文がもたらされていたことによって英印機甲部隊を過小評価し、作戦上重大な齟齬をもたらした。

戦史叢書によれば、第15軍の酒井参謀は方面軍に電文を送ったさい2000両と明記して送ったと主張し、方面軍の河野情報参謀は方面軍電報班が独断で200と判断して参謀部に届けたのではないかとの意見を収録している[23]。陸戦史集は、原因は明らかでないとしつつも、方面軍司令部電報班長をこなしていたこともある古賀俊次少佐(イラワジ戦時は第49師団参謀)の意見を載せている。曰く「電報における数字の取り扱いは特に慎重を期し、数字の暗号のほか数字略号の暗号も重複するようにしていた。したがって200と2000とを誤るようなことは、絶対にありえない」と[24]

(元歩兵第215連隊将校)磯部卓男やビルマ方面軍後方参謀だった後勝は次の見解を示している。それによれば、方面軍情報課が電文を2000両から200両に書き換えたというのである[25]。 方面軍電報班員で第15軍からの暗号電文を実際に翻訳した穴原隆治上等兵はこう回想している。「当時の暗号は、数字のような間違えやすい文字は、本文の数字のほかに符号によって二重に送信し、間違いを防ぐ方法が取られていた。たとえば、二〇〇〇という数字の次には、”フタ、マル、マル、マル”と送られていたから、この両方を付き合わせ、両方とも一致すれば間違いないというわけで、私は自信をもって二〇〇〇と翻訳した」[26]。穴原上等兵が2000両と書いた電文を河野情報参謀に渡すと、河野参謀は「2000は200の誤りではないか」として穴原上等兵と押し問答となったすえ、ついに200両と書き直させられたというのである[27]。これに関し、磯部卓男は電文から故意に零を一つ消したのは田中参謀長か門松情報課長の意向があったのではないかとも推察している[28]




  1. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 308.
  2. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 344.
  3. ^ a b スリム(1958),p. 189.
  4. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 483.
  5. ^ 三沢錬一(1972),p. 35.
  6. ^ 第33師団はミッタ河谷において英機甲部隊が前進中であることを第15軍を通じて方面軍に報告したが、方面軍はこれを無視した。磯部卓男(1991),pp. 286-289.
  7. ^ 陸戦史集は歩兵第214連隊第1大隊(片桐大隊)がスレゴンにおいて「まな板戦法」によってイギリス軍を撃退したと特筆している。まな板戦法とは、「歩兵が地下に潜ってまな板となり、砲兵が包丁となって、まな板に乗った敵を切る」戦法である。三沢錬一(1972),pp. 89-93.
  8. ^ 戦史叢書や陸戦史集は敵機甲部隊の大群が突然現れたように記述している。しかし磯部卓男(1988),pp. 179-200.および磯部卓男(1991),pp. 286-306.によれば、パコック方面に前進するイギリス第4軍団に関する情報はたびたび報告されていたが上級司令部は鑑みなかったとしている。
  9. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 589.
  10. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),pp. 592-593.
  11. ^ イギリス軍は文字通り死守する日本兵に感嘆している。磯部卓男(1988),p. 220.
  12. ^ Young(2004),p. 67. 英軍の損害は戦車6両、死傷者約2百名。戦車の損害に修理されて再び戦闘に投入されたものは含まれない。
  13. ^ 三沢錬一(1972),p. 205.
  14. ^ 三沢錬一(1972),pp. 212-213.
  15. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 645.
  16. ^ スリム(1958),p. 203.
  17. ^ スリム(1958),p. 276.
  18. ^ 磯部卓男(1988),pp. 280-284.
  19. ^ Young(2004),pp. 17-18.
  20. ^ Young(2004),p. 86. の原文では"In general, in battle one engages in the orthodox and gains victory through the unorthodox"となっている。
  21. ^ Young(2004),p. 86.
  22. ^ イラワジ会戦中、ビルマ方面軍参謀部は第1課(作戦)、第2課(情報)、第3課(後方)、第4課(政務)と分かれていた。1-3課は田中参謀長が統括し、4課は一田次郎参謀副長が統括していた。防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),p. 484. に図示されている。
  23. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部(1969a),pp. 589-590.
  24. ^ 三沢錬一(1972),p. 164.
  25. ^ 磯部卓男(1988),pp. 189-200; 後勝(2000),pp. 224-229.
  26. ^ 後勝(1991),p.227
  27. ^ 磯部卓男(1988),p. 195. 後勝は、清書係だった松本俊彦に書き直させたとしている。
  28. ^ 磯部卓男(1988),p. 196.






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