イスラームの陶芸 歴史

イスラームの陶芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 13:04 UTC 版)

歴史

この節ではイスラームの陶芸を年代順に解説する[33]

8世紀

葡萄の枝と柘榴の模様とアラビア文字の銘文がある、型により装飾を施された粘土質の陶器。7-8世紀、スーサ。ルーヴル美術館蔵(MAO S. 376)

ウマイヤ朝時代では粘土質の胎土のみが知られており、先立つパルティアサーサーン朝東ローマ帝国に既に存在していた技法・装飾・器形が使い続けられていた。このため年代の特定には数々の問題があり、スーサで発見された無釉の陶器のように正確な年代を決定できないことがしばしばである[34]。スーサの例では水差し、碗、甕、ランプなどさまざまな形の、大概は無釉で、品質に大きなばらつきのある品々が見られる。細かく均質な胎土により「卵殻」陶器のような優れた陶器が作られることもあり、ルーヴル美術館に所蔵されている小さな碗(右画像)はその最も重要な代表例である。その葡萄の枝模様の装飾は古代の地中海を想起させるものである。他の陶器からは、翼のようなよりサーサーン朝的な要素も見出される。

釉の使用はサーサーン朝時代には既に知られていた[35]。よって、ウマイヤ朝の陶器の中には青・緑・黄色で彩られたものもあり、イラクのバスラで発見された、型で成形して緑の釉をかけ、取っ手の端は芥子色の甕はその例である[36]

9-10世紀 アッバース朝

型で作られ施釉された皿。イラク、9世紀。フリーア美術館

無釉の素焼きや、型押しし施釉した陶器の生産はアッバース朝時代の初期にもまだ盛んに行われており[37]、型押しし施釉した陶器は成形に金型を用いる場合も多かったようである。9世紀には、ファイアンスラスター彩という2つの大きく、後々まで続く革新があった[注釈 7][19] 。9世紀の歴史家アル=ヤークービーを信じるなら、イラクのクーファバスラサーマッラーにラスター彩生産の中心地があった。その他にバグダードスーサにも陶工がいたのではないかと推測されている[40]

初期のファイアンス

青と緑で装飾されたファイアンス(白釉藍緑彩陶器)の鉢。9世紀、イラク。ルーヴル美術館蔵(MAO 20)

ファイアンスは青と白の装飾(中国や、後にはヨーロッパでも尊重された白釉藍彩)を実現するために用いられることが最も多く[41]、植物文様、幾何学文様、文字文様が施されていた。青緑、緑、褐色、紫色などの作例もあり[42]、コバルトによる青と共に用いられることが多かった。

水差しの破片。8-9世紀、スーサ。ルーヴル美術館蔵(MAO S.575)

この技法は開いた器形で用いられることが多かったが、スーサの水差しの破片[43]に見られるように閉じた器形のものも存在する。3つの脚のある柘榴文様の皿[44]のように、中国の陶芸に影響を受けた器形も見られ、 この皿のような、コバルトが釉に融けて若干ぼやけた装飾は同時代の作品の多くに見られる[45]

イラクのファイアンスはアッバース朝の他の地域、とりわけマグリブとイラン東部でも盛んに模倣された。こうした模倣作品では緑と紫が典型的な彩色であった[注釈 8]

ラスター彩

ファイアンスが器などにのみ用いられた一方で、ラスター彩[19]の方は9-10世紀には建物のタイルにも用いられた。知られている最も傑出した例の1つはチュニジアのカイラワーンの大モスクフランス語版の、139枚のラスター彩タイルからなる装飾である[47] [48] イラクのサーマッラーの発掘現場からも建築でのラスター彩の使用例が発見されている[49]

様式化された花束の文様の鉢。粘土質胎土で、不透明の釉上に多色のラスター彩による装飾が施されている。9世紀、イラク。ルーヴル美術館蔵(OA 7479)

この時代のラスター彩の作品には多色のものと単色のものがあり、 多色のものはより稀であるが、矛盾したことに、単色のものよりも早くから作られていたようである[50]

多色のラスター彩
多色のラスター彩は単に1つの作品に複数の色のラスター(ルビーレッドから黄金色や緑がかったものまで極めて幅がある)が施されているというのみならず、様式や図像にも特徴がある。これらの作品には、同時代のイスラームの他の作品に見られたような図像がほとんど見られないのである(サーマッラーで発見された鶏のタイルは有名な例外である)。従って、その装飾は主に幾何学文様や植物文様から構成されており、これらは非常に様式化されていることが多く、目玉模様、山形模様、縞模様などのさまざまなモチーフで埋められていた。シンメトリと戯れることも多い。ルーヴル美術館のOA 747の鉢のように、様式化された花束の文様が多く知られている[51][52]
単色のラスター彩
単色のラスター彩は速やかに多色のそれを置き換えていったようである。単色のラスター彩では動物や人間の図像が再出現した[53][54]フリーア美術館蔵の壺はその例の1つである[55]。とはいえ充満する文様と相容れないということはなく、この壺でも装飾に分割があり構成に空白が入りこそしているが、依然として目玉模様が肩の部分を飾っている。ルーヴル美術館蔵の「旗手の鉢」[56] では、芸術家は強烈な「余白恐怖症」を見せているが、白い輪郭線が下地から主要なモチーフを分離している。また、この時代に典型的な、他の分野でもしばしば単純な装飾モチーフとして用いられていた銘文がこの作品にも見出される[注釈 9]

多彩釉陶器

多彩釉陶器の鉢。粘土質の胎土にスリップを施し、有色の透明釉の下に線刻の装飾(粘土製線刻文施釉白スリップ鉢)。10-11世紀、コーラサンもしくはトランスオクシアナ。ルーヴル美術館蔵(MAO 750)

9世紀末から10世紀にかけて、時折用いられた装飾技法がもう1つある。多彩釉陶器・多彩釉刻線文陶器、「流し込み陶器」、「スプラッシュウェア」(splashware)などと呼ばれるもので、釉の流れを活かした中国の陶器である唐の「三彩」と類似しているが、別々に発展したものと考えられている[58]。茶、黄、緑などの異なった色の釉が、裸もしくはスリップを施した胎土の上で垂れるようにされ、もしくは振りかけられる。この技法はイスラーム世界の東側で特に良く知られていたが、またエジプトでも発展していたようである[59]。線刻やシャンルヴェ(彫りくぼめ)と共に用いられることが多く、この技法は後の時代にイスラーム世界の広範囲で大きな成功を収めることになる[60]

10-13世紀

動物の頭を持つ水差し。粘土製、線刻とシャンルヴェで装飾され、スリップと有色の透明釉が施されている。イラン、ザンジャーン、ガルス地方。12-13世紀。ルーヴル美術館

10-13世紀にはスリップ英語版による装飾が出現・発展を見せた。イランが中心であったが、イスラーム世界の他地域でも同様であった。スリップにモチーフを刻む「ズグラッフィート」(掻落し)、スリップの一部を除去して胎土の色を出すシャンルヴェ、釉下でのスリップの上のスリップなど、さまざまな技法が用いられた。陶工たちはファイアンスを模倣しようとすることが多く、動物の頭を持つ水差しに見られるようにシャンルヴェやズグラッフィートの技法を有色の釉の流れの技法と組み合わせることも時折あった。しかしながら、イランのガルス地方で発見された陶器では、こうした技法で露出されたのは胎土ではなく、白のスリップの下にある黒の第2のスリップの層であった[61]

鳥の描かれた鉢。珪土質の胎土にラスター彩。イラン、12世紀末。ルーヴル美術館

また11世紀には、珪土質の胎土の出現による新たな大変革も起こった。この胎土はファーティマ朝のエジプト(スカンロン)もしくはセルジューク朝のイランで発見、もしくは再発見されたものと思われる(古代エジプトやメソポタミアにも存在していた)。この胎土の使用は陶芸の大中心地のみでの、極めて贅沢な陶器のためだけに限られていた。カオリンがイスラーム世界では入手できなかったにもかかわらず中国の磁器を模倣しようとした努力の結果、この白く薄く非常に硬い素材に辿り着いたものと考えられる[62]

蛍手の装飾のある鉢。珪土質の胎土。イラン、12世紀。ルーヴル美術館

珪土質の胎土による陶器に用いられた装飾の技法は無数にある。一般に、胎土の色を活かすために透明な釉が用いられ、また材質の硬さのために轆轤ではなく型によって成形された。小さな穴(「蛍手」と呼ばれる装飾)や、刻んだ銘文などを持つこともあった。ほとんど目に見えない、「隠し装飾」が施されることもあった。

「ミーナーイー」(ペルシア語「七宝」)もしくは「ハフト・ランギ」(ペルシア語「七色」)では「小焚」による装飾技法が用いられる。これはセルジューク朝のイランに特有の産品であり、年代の分かる銘は1186-1242年のものがある。その生産の中心地はカーシャーンであったが、レイでも生産が行われていた可能性がある[63]。複雑な工程のため極めて高価なものであった[64]。珪土質の胎土はまず釉を施して高温で焼かれ、それから色が置かれる。基礎となる色は7つある。赤、白、黒、および金は安定しており、融点はおよそ1063℃である。緑、褐色、青は不安定で、このためにさまざまな色合いを持ち得る。2度目の焼きは600℃前後で、酸化環境(窯に酸素が入り込める)にて行われ、各作品は箱に入れて隔離しておかねばならない。この時に陶工は温度を調整することで色合いにニュアンスを与えることができる。ただし、高過ぎあるいは低過ぎる温度は窯の作品全てにとって致命的となってしまう恐れがある。

バフラーム・グールとアーザーデの鉢。珪土質の胎土にハフト・ランギ。イラン、12-13世紀。メトロポリタン美術館

極度の洗練により、ラスター彩とハフト・ランギの技法が組み合わされるところにまで至り、この場合には少なくとも3度の焼成が必要となる。1度目は胎土と釉および場合によっては安定した色を焼き、2度目では環境(酸化/還元)を変えラスター彩を焼き、3度目に色を焼くのである。

ハフト・ランギはまた同時代の絵画から取ったものではないかと思われる精緻な装飾も特徴となっている(ただしこの仮説を裏付ける写本は全く存在していない)[65]。非常に説明的な場合もある、文学を想起させうる具象的な場面が描かれており、たとえばメトロポリタン美術館蔵の「バフラーム・グールとアーザーデの鉢」はフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』もしくはニザーミーの『ハムサ』に言及しているものと思われる。

極めて希少であったハフト・ランギの生産はモンゴルの侵攻により突然途絶えてしまう[66]。小焚の技法の方は、ラージュヴァルディーナとして継続されることとなる。

また、シリアでは新しい装飾の形が誕生した。透明な釉の下の着彩で、使用する色の数は少ない(コバルトブルー、黒、やや後には鉄の赤が用いられ、鉄の赤はしばしばカーキ色がかった緑に変色した)が、1度だけで焼くことができ、その分だけ失敗の可能性を減らすことができた。胎土は粘土質・珪土質の両方が用いられたが、特にセルジューク朝のアナトリアでは珪土質のものが用いられた。

14-16世紀

駱駝が描かれた星型のタイル。珪土質の胎土。不透明の釉の上にラスター彩、縁にはコバルトのハイライトが施されている。イラン、13世紀。ルーヴル美術館

「ラージュヴァルディーナ」は、モンゴル支配下において小焚の技法が定着したものである。この語はペルシア語で「ラピスラズリ」を意味し、ラピスラズリを含む非常に鮮やかな青の釉薬が用いられることから来ている。この技法はアブル・カシムの記事で紙幅を割いて記述されているが、13世紀の終わりから14世紀(1374-1375のものが最後)までの間にのみ、主にカーシャーン(唯一の確かな中心地)において用いられたものである[67]。用いられる色数はハフト・ランギよりも少ない。青、白、赤および金のみであるが、釉上にも彩色され、2度目の焼成で低温で焼かれた。金色も低温で彩色されることがあった。具象的な人物像などの装飾は見られなくなった[68]

ラスター彩の革新はモンゴル支配下においても見られた。コバルトブルーおよび/もしくはターコイズによるハイライトが用いられるようになり、また型取りしラスター彩を施したタイルも出現した。ラスター彩は建築装飾に非常に頻繁に用いられ、器の方では「スルターナバード彩」と呼ばれる、釉の上下にスリップを施した装飾が用いられた[68]

小川のほとりの人々が描かれた、クエルダ・セカによる陶器のパネル。イラン、18世紀

14世紀には西方で「クエルダ・セカ」(cuerda seca)の技法も開花した。これはスペイン語で「乾いた紐」を意味し、黒い素材(マンガンを含む油もしくは蝋)によるある種の仕切りを、紐を補助的に用いて置くことによって陶工たちが複数の色を分離したことからこう呼ばれる。焼成の際にはこの素材は燃えてしまい、黒い痕跡が残るのみとなる[69]イスタンブールの「シミリ・キオスク」[訳語疑問点]で用いられたこの技法は、サファヴィー朝の建築装飾においてもよく見出される。

陶芸によるモザイク装飾は、ルーム・セルジューク朝の作例があるので14世紀よりやや前に発明されたものと思われる。しかしながら、モザイク装飾が繁栄を見るのは15世紀、ティムール朝においてであった。陶工たちは異った色の施釉タイルを必要な形に切り取り、それらを漆喰の中で組み合わせてモザイクを作り出した。ティムール朝では、柱やミフラーブなどに彫刻を施した焼き物が用いられることも時折あった。

三大帝国の時代

イズニクの水差し。珪土質の胎土、スリップの上に装飾を描き透明釉が施されている。1560-1570年頃。ルーヴル美術館

ムガル帝国では陶芸が衰退した一方で、オスマン帝国ではイズニク陶器英語版が出現した。胎土は珪土質であったが、焼成温度を下げ燃料を節約するためにが混合された。また、これらの陶器は胎土と同じ組成のスリップで覆われた。これは初の珪土質のスリップである。無色の釉の下に装飾が描かれ、1度だけで焼成される。初期には青が用いられ、それから青緑、緑、ピンク、灰、黒、紫、褐色なども現れるようになっていった。しかしながら、イズニクの陶器を有名にしたのは酸化鉄によって実現されたトマトのような赤であった[70]

ペルシア人による自治を回復したサファヴィー朝では美術が再興し、シャーたちの求めにより中国の磁器の再現が再び試みられたが実らなかった。この時代に特徴的な陶器として、イズニク陶器に様式的には類似した釉下彩陶器であるクバチ陶器があった。ダゲスタンのクバチ地方で多くが発見されたためにこの名があるが、生産はタブリーズ周辺で行われていたと見られる[71]

結び

イスラーム世界におけるさまざまな時代や文化を通じて、陶芸の人気は常に際立ったものであった。労働者階級において陶器は常に実用的なものであり続けた一方で、その今に伝わる最も美しい作品は単なる職人仕事の域を超えた芸術の域にまで疑いなく達している。技法の多様性と洗練によりさまざまな、時として見事な作品が生み出され、イスラーム美術全体の中でも傑作となっているものもある[72]


注釈

  1. ^ こうした文書類がほぼ存在しないのは、陶工たちが工房の秘密を守ろうとしたためではないかと考えうる[2]
  2. ^ セルジューク朝では陶工の名や年代を記した銘文が多かった[6]
  3. ^ 素焼き壺の濾過部分の場合に特に当てはまる[15]
  4. ^ 600℃[20]、600-700℃[21]。上限で750℃前後。
  5. ^ 展覧会「金の光沢」における分析では酸化銅が単独で用いられる場合もあった(アイユーブ朝やサファヴィー朝)ことが示されているが、酸化銀と組み合わせて用いられることの方が一般的であった[22]
  6. ^ 「野兎の鉢」はその例である。OA 7478[リンク切れ]
  7. ^ ラスター彩として知られている最も古い諸作品が既に完成度の高いものであったことと、制作年代が明確な作品の存在しないことから、この技法の発見された場所と時期を特定することは専門家にとって未解決の問題となっている。8世紀のエジプトに作例のある、光沢のあるガラス工芸から派生したものではないかと考えられる。いずれにせよ、陶芸のラスター彩が出現したのがイラクであったろうということでは専門家の大部分の間で一致を見ている[38][39]
  8. ^ [46] Voir aussi, pour la céramique maghrébine, Le vert & le brun : de Kairouan à Avignon, céramiques du X-XVe siècles [cat. exp. Marseille, Chapelle de la Vieille charité, 17 novembre 1995-29 février 1996 ; Valence, printemps 1996 ; Faenza, Musée international de la céramique, automne 1996 ; Paris, Institut du monde arabe, hiver 1997 ; Lisbonne, Fondation Gulbenkian, automne 1997]. Marseille/Paris : Musées de Marseille/Réunion des musées nationaux, 1995.
  9. ^ サーマッラーで発掘された、粘土質胎土に釉上単色ラスター彩の装飾を施し、倣文字文のある甕。ベルリンのイスラーム美術館(SAM 1099)[57]

出典

  1. ^ Porter, Venetia. Islamic tiles. Londres : The British Museum Press, 1995, p. 8
  2. ^ Porter, Y (1999). “Les sources écrites sur les techniques de la céramique dans le monde musulman”. In Mouliérac, Jeanne. Céramiques islamiques du monde musulman. Paris: Institut du monde arabe. pp. [要ページ番号] 
  3. ^ J.W. Allan. “"Abu'l-Qasim's Treatise on Ceramics", Iran 11 (1973) pp.111-20” (英語). islamicceramics.ashmolean.org. 2021年6月27日閲覧。
  4. ^ 三上 1986, pp. 237–238
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  6. ^ 杉村 1999, p. 107.
  7. ^ Moulierac 1999, p. 36-80
  8. ^ Soustiel 1985a, p. 384
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  10. ^ Sophie Makariou (dir.), Suse, terres cuites islamiques, Snoeck, 2005(2005年).
  11. ^ クーパー 1997, pp. 111–112
  12. ^ Behrens-Abouseif, Doris et Vernoit, Stephen (eds.). Islamic Art in the Nineteenth Century : tradition, innovation and eccelctism. Leyde : Brill, 2006.
  13. ^ Soustiel 1985a, p. 390
  14. ^ Soustiel 1985a, p. 385
  15. ^ Olmer, P., Les filtres de gargoulette, Le Caire, 1932. (catalogue du musée arabe du Caire)
  16. ^ 無釉の陶器に関しては、Bernus-Taylor, Marthe. "En Islam", La céramique non glacée, site Qantara を参照。
  17. ^ 三上 1986, p. 138
  18. ^ Mouliérac 1999, p. 50-51, op.cit.
  19. ^ a b c « La céramique lustrée » sur le site Qantara
  20. ^ Mouliérac, p. 47
  21. ^ Mouliérac, l'article du site Qantara
  22. ^ 国立中世美術館 2008, pp. 112–115
  23. ^ Sur cette technique, pour l'Espagne, voir aussi Le calife le prince et le potier. [cat. exp. Lyon, musée des beaux-arts, 2 mars - 22 mai 2002]. Lyon/Paris : Musée des beaux-arts/RMN, 2002.
  24. ^ スペインにおけるこの技法については Le calife le prince et le potier. [cat. exp. Lyon, musée des beaux-arts, 2 mars - 22 mai 2002]. Lyon/Paris : Musée des beaux-arts/RMN, 2002. も参照
  25. ^ 三上 1986, p. 236
  26. ^ Ettinghausen, Grabar & Jenkins-Madina 2001, p. 251
  27. ^ Mouliérac, p. 53, op cit.
  28. ^ 三上 1986, p. 227
  29. ^ Porter, pp. 75–79Porter, Venetia. Islamic tiles. London: British Museum Press. pp. 75-79 
  30. ^ Bernus-Taylor 2001, p. 41
  31. ^ クーパー 1997, p. 113
  32. ^ 三上 1986, pp. 261–262。壁棒の正確な使用法は未判明。
  33. ^ イスラームの陶器に関する年代別の研究として最も完全なものとしては、参考文献に挙げられているA. LaneとJ. Soutielのものがあり、この節の記述の大部分はこれらに依拠している。
  34. ^ Sophie Makariou (dir.), Suse, terres cuites islamiques, Snoeck, 2005.
  35. ^ Soustiel 1985a, p. 24
  36. ^ Ettinghause, Grabar & Jenkins-Madina 2001, p. 62.
  37. ^ Ettinghausen, Grabar & Jenkins-Madina 2001, p. 67
  38. ^ 桝屋 2009, pp. 114–115.
  39. ^ 三上 1986, p. 236.
  40. ^ 国立中世美術館 2008, p. 15
  41. ^ John Carswell, Blue and white: chinese Porcelain and its impact on the Western world, Chicago, 1985
  42. ^ ルーヴル美術館蔵(OA 7474)の銘文のある皿の画像も参照
  43. ^ ルーヴル美術館(MAO S.575)蔵。画像はウィキメディア・コモンズのものを参照
  44. ^ Plat tripode à la grenade (MAO S. 488): Voir deux photos sur le site du musée du Louvre.
  45. ^ Bernus-Taylor 2001, p. 20
  46. ^ Ettinghausen, Grabar & Jenkins-Madina 2001, p. 68
  47. ^ 1例として Georges Marçais, Les faïences à reflets métalliques de la grande mosquée de Kairouan, Paris, 1928 を参照。ただし、これらのタイルの制作年代と制作地は確定していない。
  48. ^ Marçais(1928)に収録されていたタイルの画像も参照
  49. ^ Jawsaq al-Khaqani[訳語疑問点]で発見され、大英博物館とベルリンのイスラーム美術館に保存されているタイルの破片。cf. Venetia Porter, Islamic Tiles, Londres : The British Museum Press, 1995, pp. 26-27
  50. ^ クーパー 1997, p. 104
  51. ^ Bernus-Taylor 2001, pp. 20–21
  52. ^ 国立中世美術館 2008, pp. 18–19
  53. ^ Bernus-Taylor 1994, p. 23
  54. ^ 桝屋 2009, p. 114
  55. ^ F. 1953-90フリーア美術館のページ
  56. ^ MAO 23 ルーヴル美術館のページ日本語
  57. ^ 2008年クリュニー展(国立中世美術館)の展示カタログに再掲、図版74、p. 22。
  58. ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 109; 小林 2004, p. 104
  59. ^ Ettinghausen, Grabar & Jenkins-Madina 2001, p. 71, 200
  60. ^ 三上 1986, p. 139
  61. ^ 三上 1986, pp. 140–142
  62. ^ 杉村 1999, p. 107
  63. ^ 三上 1986, p. 169
  64. ^ 桝屋 2009, p. 116
  65. ^ 三上 1986, p. 169 ; 写本画家が絵付けを行った可能性のある例については杉村 1999, p. 375も参照。
  66. ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 271
  67. ^ 三上 1986, pp. 170, 238
  68. ^ a b 三上 1986, p. 170
  69. ^ クエルダ・セカの技法については(三上 1986, p. 227)
  70. ^ クーパー 1997, p. 118; 三上 1986, pp. 225–230
  71. ^ 三上 1986, pp. 171–173; クーパー 1997, pp. 120–122
  72. ^ クーパー 1997, p. 98





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