アンリ・ヴェルヌイユ 略歴

アンリ・ヴェルヌイユ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 18:16 UTC 版)

略歴

本名はAshot Malakian。トルコテキルダーで、アルメニア系の家庭に生まれる。

彼が子供の時にトルコ政府の弾圧を避けて家族で、マルセイユに移住。エクサン・プロヴァンスの工芸学校を1943年に卒業。

1944年より「Horizon」誌のジャーナリストとして活動。

1947年、大スターのフェルナンデルと出逢い、彼の主演で短編「Escale au soleil」を監督。以来、多数の短編を監督すると共に、50年はアンドレ・メサジェ作曲のオペレッタ《ヴェロニク (オペレッタ)》の映画版「Véronique 」(1950)の助監督も務めた。

1952年、「La Table aux crevés」で長編監督デビュー。

1954年、フェルナンデル主演「Le Mouton à cinq pattes」がロカルノ国際映画祭を受賞(同年受賞作は『地獄門』など)。アメリカ公開でも評判となり、1956年アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。

続く『過去をもつ愛情』『ヘッドライト』が日本でも評判となるが、ヌーヴェルヴァーグの台頭と共に日本公開作が減少し、ジャン・ギャバンジャン=ポール・ベルモンドといったスター主演作でさえ公開されずに終わった。

しかし、ギャバン主演作『地下室のメロディー』で復活し、以後ギャバン、ベルモンド、アラン・ドロンらの主演によるポリシエ(刑事物)、犯罪物で本領を発揮。

1979年イヴ・モンタン主演の「I... comme Icare」が評判となり、翌年のセザール賞には監督賞を含む5部門でノミネートされた。

1982年は「Mille milliards de dollars」を発表するが、公開から5ヶ月後に主演のパトリック・ドヴェールが自殺するという悲劇が起きる。

1984年は、ベルモンドと久しぶりに組んだミシェル・オディアール脚本による戦争コメディ「大喰らい」を発表するが、以後は映画から距離を置く。

キャリアの最後として、マルセイユに移住した頃の思い出を元にした連作「Mayrig」(1991)と「588, rue Paradis(1992)をクラウディア・カルディナーレオマー・シャリフの主演で監督。

以後は闘病に専念していたが、1996年にはセザール賞がそのキャリアを称え、名誉賞を授与。また、50周年のキャリアを振り返ったドキュメンタリー映画も作られた。

2002年1月11日に、バニョレの病院で死去。1月17日に8区にあるパリ聖ジャン=バチスト・アルメニア教会 Cathédrale arménienne Saint-Jean-Baptiste de Paris にて葬儀が執り行われた。なお、ドロン、カルディナーレ、シャルル・アズナヴールピエール・カルダンジェラール・ウーリー、ミシェル・ドリュッケール、ダニエル・トスカン・デュ・プランティエらが参列した。








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