アウトウニオン・レーシングカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 14:18 UTC 版)
車両
開発
アウトウニオン・レーシングカーの開発は1933年にホルヒの専門的技術者によって始められた。初走行は1933/34年の冬にニュルブルクリンク、アヴス、モンツァ等のサーキットで行われた。開発作業は1942年になって完全に停止するまで続けられた。 メルセデス・ベンツのマシン開発は元レーシングドライバーのルドルフ・ウーレンハウトによって指揮されており、ウーレンハウトは自らマシンに乗ることで開発作業に的確なフィードバックを提供していた。これを受けてアウトウニオンも更なるフィードバックを得るための車載計測器を開発する必要に迫られた。アウトウニオンはテスト走行中、ぜんまい式の装置と円盤形の紙を組み合わせてエンジン回転数等のデータを記録することでエンジニアが後日走行データを分析することを可能にした。[2] 分析の結果、コーナー脱出時の加速で内側のリアタイヤが激しく空転しており、コーナリング時のマシンの挙動を悪化させていることが判明した。この問題は1935年シーズンの終わりに搭載されたポルシェ発案のZF製リミテッド・スリップ・デフによって大幅に軽減された。 アウトウニオン・タイプAの開発が終わると、フェルディナント・ポルシェは息子のフェリー・ポルシェに日常的な業務を引き継がせ、フォルクスワーゲン・ビートルの生産工場の準備に専念したが、アウトウニオンに対するポルシェの協力は後継モデルのタイプB、タイプCの開発においても継続された。技術進化によって軽量かつ大パワーのエンジンを搭載するマシンが登場し、レースの高速化と事故の頻発を招いたことで750kgフォーミュラは廃止され、両者の協力関係も終わりを告げた。 新レギュレーションに準拠するアウトウニオン・タイプDの開発を担当したのは工学博士のローベルト・エーベラン・フォン・エバーホルストだった。タイプDは750kgの最低重量規定と過給器付きで3.0L、自然吸気で4.5Lという最大排気量規定の下で設計された。タイプDは基本的にV12エンジンを搭載したが、排気量無制限のヒルクライムイベント仕様のタイプDは引き続きタイプC用のV16エンジンをファイナルギアを調整したギアボックスと組み合わせて使用した。
1934年
ボアφ68mm×ストローク75mmで4,358cc[注釈 3]、過給圧0.60バール、圧縮比7.0で295PS/4,500rpm、トルク54kgm[1]。
この年アウトウニオンの公式レースチームはハンス・スタック、アウグスト・モムベルガー、プリンツ・ツー・ライニンゲンの3人であった[1]。
ドイツグランプリはハンス・スタックとメルセデス・ベンツのルドルフ・カラツィオラとの激しい一騎討ちになった[1]。結局カラツィオラはリタイヤしスタックがトップに立ったが、ゴール4周前に水温計が100度を示した[1]。スタックはピット前でラジエターを指差し、アウトウニオンのピットではスタックをピットインさせようとしたが、フェルディナント・ポルシェは18周もしたのに突然冷却水が過熱することはあり得ず温度計の故障であろうと看破し、ゴールまで完走、これが国際レースにおけるアウトウニオンの初勝利となった[1]。このレースでの平均速度は122.93km/hであった[1]。
スイスグランプリではハンス・スタックが1位、アウグスト・モムベルガーが2位であった[1]。
イタリアグランプリはハンス・スタックとプリンツ・ツー・ライニンゲンが乗り継いで2位となった[1]。
秋に記録達成を目指して流線型ボディを備え、スタックの運転により7つの世界記録と8つの国際記録を樹立した[1]。
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fa%2Fa8%2FBundesarchiv_Bild_146-1989-015-36A%252C_N%25C3%25BCrburgring%252C_Bernd_Rosemeyer_in_Rennwagen.jpg%2F250px-Bundesarchiv_Bild_146-1989-015-36A%252C_N%25C3%25BCrburgring%252C_Bernd_Rosemeyer_in_Rennwagen.jpg)
1935年
ボアφ72.5mm×ストローク75mmで4,954cc[注釈 4]、過給圧0.75バール、圧縮比8.95で375PS/4,800rpm、トルク66kgm[1]。
モンツァ・サーキットにおけるイタリアグランプリでハンス・スタックが優勝したが、メルセデス・ベンツの成果には及ばず、アウトウニオンはさらに優れたレーシングドライバーを探し、ニュルブルクリンクで行なわれたアイフェル・レースからベルント・ローゼマイヤーを出場させた[1]。アウトウニオン・レーシングカーはオーバーステアの傾向があり他のドライバーがなかなか乗りこなせない中でローゼマイヤーは最初からうまく乗りこなし、このレースでは最後の2km直線でエンジン不調に陥り抜かれたものの、最終ラップでカラツィオラを押さえてトップに立っていた[1]。
スイスグランプリではすでにベルント・ローゼマイヤーがトップドライバーとなっており、3位に入賞した[1]。
フィレンツェでスタックの運転によりフライングスタート1kmで326.9km/hを記録した[1]。
1936年
シーズンオフにエンジンを大幅に改良[1]し、ボアφ75mm×ストローク85mmで6,008cc[注釈 5]、過給圧0.95バール、圧縮比9.2で520PS/5,000rpm、トルク87kgm[1]。
1935年は「メルセデスの年」と言われたが、1936年は「アウトウニオンの年」となった[1]。ベルント・ローゼマイヤーはドイツグランプリ、スイスグランプリ、イタリアグランプリに連勝し、トリポリのメラハでも優勝した[1]。ニュルブルクリンクでは周回10分を切るのが長い間夢の目標とされて来たが、これもこの年のドイツグランプリ3周目にローゼマイヤーが9分56秒4で周回し達成した[1]。
ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ選手権チャンピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得した。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウトウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。
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1937年
ボアφ77mm×ストローク85mmで6,333cc[注釈 6]、過給圧0.94バール、圧縮比9.2で545PS/5,000rpm、トルク90kgm[1]。 1937年のグランプリ・シーズンで使用されたタイプCは基本的に1936年シーズンのものと同一だったが、新設計のメルセデス・ベンツ・W125に対して予想以上の善戦を見せた。メルセデスがシーズン7勝を挙げたのに対しアウトウニオンは5勝を挙げた。ローゼマイヤーはアイフェルレンネン、ドニントングランプリ、コッパアチェルボ、そしてヴァンダービルト・カップで勝利し、トリポリグランプリでは2位を獲得した。ベルギーグランプリではルドルフ・ハッセが優勝、スタックが2位に入った。フォン・デリウスはアヴスレンネンで2位を獲得した。
1938年
1938年シーズンはアウトウニオンにとって困難に満ちたものになり、3Lの最大排気量規定への対応に苦慮する中、シーズン開幕前の地上速度記録挑戦中にローゼマイヤーが事故死するという不幸にも見舞われた。 新たにチームに加入したトップドライバーとして名高いタツィオ・ヌヴォラーリがイタリアグランプリとドニントングランプリで優勝したものの、1938年のアウトウニオン・チームは不振に終わり、ヌヴォラーリが2つのグランプリに勝利し、スタックが再びヨーロッパヒルクライム選手権を制した他には目立った成績を残すことができなかった。
1939年
1939年にはヨーロッパを戦争の影が覆いつつある中、ヌヴォラーリがベオグラードでのユーゴスラビアグランプリで優勝を飾った。ヌヴォラーリはこの年のアイフェルレンネンでも2位を獲得した。ヘルマン・パウル・ミューラーはフランスグランプリで勝利し、ドイツグランプリでも2位でフィニッシュした。その他にはハッセがベルギーグランプリで、ゲオルグ・マイアーがフランスグランプリでそれぞれ2位を記録した。
- ^ 原文では4,385ccだが誤植と思われる。3.14159×(6.8/2)×(6.8/2)×7.5×16=4,358.013648。
- ^ いずれ6,000rpmに向上させるとしていた。
- ^ 原文では4,360ccだが四捨五入してあると思われる。3.14159×(6.8/2)×(6.8/2)×7.5×16=4,358.013648。
- ^ 原文では4,950ccだが四捨五入してあると思われる。3.14159×(7.25/2)×(7.25/2)×7.5×16=4953.89473125。
- ^ 原文では6,010ccだが四捨五入してあると思われる。3.14159×(7.5/2)×(7.5/2)×8.5×16=6,008.290875。
- ^ 原文では6,330ccだが四捨五入してあると思われる。3.14159×(7.7/2)×(7.7/2)×8.5×16=6,333.0056174。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.83-90「アウト・ウニオン・レーシングカー」。
- ^ “Auto Union Racing Cars”. BBC. 2009年6月20日閲覧。
- ^ “THE GOLDEN ERA – OF GRAND PRIX RACING”. kolumbus.fi. 2016年12月18日閲覧。
- ^ Damon Lavrinc RSS feed (2008年6月24日). “Audi to debut Auto Union "Silver Arrow" Type D reconstruction at Goodwood”. Autoblog.com. 2011年12月13日閲覧。
- ^ a b c “Auto Union Type C”. seriouswheels.com. 2009年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月20日閲覧。
- ^ Van onze verslaggever Theo Stielstra. “Miljoenen voor 'Hitlers Porsche' – Economie – de Volkskrant” (オランダ語). Volkskrant.nl. 2011年12月13日閲覧。
- ^ “'World's most valuable car' fails to sell - CNN.com”. CNN 2010年4月26日閲覧。
- ^ Lewis, Simon (2009年6月20日). “The fast and the Führer: Own Hitler's car for £5.5m”. London: Daily Mail. オリジナルの2009年6月5日時点におけるアーカイブ。 2009年6月20日閲覧。
- ^ Bonhams Auctioneers. “1939 Auto Union 3-liter 'D-Type' V12 Grand Prix Racing Single-Seater Chassis no. '19' Engine no. 17”. Bonhams.com. 2012年2月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月13日閲覧。
- ^ Frank Filipponio RSS feed. “Monterey 2009: Auto Union is a no-sale at Bonhams”. Autoblog.com. 2011年12月13日閲覧。
- ^ “Audi Rebuilds Historic Auto Union Wanderer Streamline Specials”. Worldcarfans.com (2004年3月31日). 2011年12月13日閲覧。
- ^ “Sensational Comeback of the Wanderer Streamline Special”. Worldcarfans.com (2011年12月9日). 2011年12月13日閲覧。
- ^ “Rare 'Streamline Special' Wanderers back on the road following Audi Tradition restoration”. Classicdriver.com. 2011年12月13日閲覧。
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