アイダ・ルイス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/27 23:09 UTC 版)
アイダ・ルイス | |
---|---|
生誕 | Idawalley Zoradia Lewis 1842年2月25日 アメリカ合衆国 ロードアイランド州ニューポート |
死没 | 1911年10月24日 (69歳) アメリカ合衆国 ロードアイランド州ニューポートライムロック島 |
墓地 | Common Burying Ground, Rhode Island |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | 灯台守 |
給料 | 年間750ドル |
肩書き | ライムロック灯台守 |
任期 | 1872年(実質1857年)-1879年 |
前任者 | Captain Hosea Lewis |
後任者 | Edward Jansen |
配偶者 | William Wilson(1870年 - 1872年) |
親 | (父)Captain Hosea Lewis (母)Idawalley Zoradia Wiley |
栄誉 | ゴールド・ライフセービング勲章(1869年) |
略歴
ロードアイランド州ニューポートに、4人兄妹の長女として生まれる。
- 1855年(14歳)、ニューポートで1番泳ぎが巧いと評されていた。
- 1857年(16歳)、ライムロック灯台(Lime Rock Light)の灯台守だった、父Hosea Lewis が発作のために倒れた後、仕事を実質的に継ぐ。灯台守に加え、毎日兄妹を学校へ船で送り迎えをしていた。
- 1858年、近隣の家族4人の船が転覆した時に彼らを救出。
- 1869年7月4日、ニューポート市民により、彼女に新しいボート(船名:the Rescue、マホガニー製)が贈られる。アイダは以降、独立記念日にボートに車輪を付けてパレードに参加した。
- 灯台守としての活動が全国的に有名になり、当時の国内で最も普及していた出版物、Harper's Weekly、Frank Leslie's Illustrated Newspaperに掲載される。
- 1869年、合衆国第18代大統領ユリシーズ・S・グラント、副大統領スカイラー・コルファクスは ライムロック灯台を訪れアイダと面会、ゴールド・ライフセービング勲章を授与する(同年、彼らを含め約9,000人が人気者になったアイダに会いにライムロック灯台を訪れる)。
- 1870年、コネチカット州出身のWilliam H. Wilson と結婚。
- 1879年、正式にライムロック灯台の灯台守に任命された(父 Hosea Lewis は、倒れた後も亡くなる1872年まで正式な在任者であった。その後1872年-1879年は、彼女の母が任命されていた)。給料は年間750ドル。
- 彼女は、寝る時も灯台の明かりが見えるようにベッドを配置していた。『ライムロック灯台の灯りは私の子供、それは私が眠っているときも私を必要としているの』("It is my child, and I know it needs me even if I sleep.")との言葉を残す。
- 1911年10月24日(69歳)、勤務中に発作により死亡した。ニューポートの全ての船がその夜、追悼の意を表し鐘を鳴らし、街の全ての旗は半旗になった。
- 1,400人以上が、彼女の遺体を見る為に Thames Street Methodist Church に訪れた。
遺産
- 彼女の後任者 Edward Jansen と妻の間に授けられた娘は、Ida Lewis Jansen と名付けられた。
- 1924年、連邦議会下院は、ライムロック灯台を、アイダ・ルイス・ライムロック灯台(Ida Lewis Lime Rock Light)に改名する件を可決した。
- 1927年に自動化されるまで Edward Jansen は同灯台に勤務した。その後1963年に同灯台は閉鎖された。ただし現在でも、夏の間は臨時に点灯されることがある。
- アイダ・ルイスの墓は、Common Ground Cemetery(ニューポート市)にある。
- 墓銘 『アメリカの名誉ある最愛の人、ニューポート湾ライム・ロック灯台守、たくさんの友人により建立』
- 自動化の翌年の1928年、灯台はアイダ・ルイス・ヨットクラブになった。
- 1955年、合衆国沿岸警備隊のブイ管理船は、"Ida Lewis" と名付けられる。
- 公式には39年の任期で18人の人命救助を行った。
- 1 アイダ・ルイスとは
- 2 アイダ・ルイスの概要
- 3 参考文献
- 4 参照
- アイダ・ルイスのページへのリンク