F-84 サンダーストリーク機事件
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「ジークフリート・バルト」の記事における「F-84 サンダーストリーク機事件」の解説
1961年の西ドイツ空軍F-84機による領空侵犯事件により第32戦闘爆撃航空団の指揮官であったバルト中佐は、当初国防大臣のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスによりその指揮権を取り上げられたが、後に多数の調査や抗議の声の後で職務に復帰した。1961年9月14日に第32戦闘爆撃航空団所属の2機のリパブリック F-84F サンダーストリーク機は航法ミスが原因で東ドイツの領空を侵犯し、多数のソ連軍戦闘機の追撃をかいくぐってベルリン・テーゲル空港に着陸した。この出来事は、ベルリンの壁が建てられた1カ月後という冷戦期間中の歴史的に困難な時期に発生した。 バルトは自身に対して申し立てられた訴因について無罪を立証するためにドイツ軍人にとり最高位の裁判所である(Wehrdienstsenat des Bundesdisziplinarhof)にこの案件を持ち込まなければならなかった。ミュンヘンの裁判所は12月20日にバルトの異議申し立てを審議し、ヨーゼフ・カムフーバー、マルティン・ハルリンクハウゼン、ヴェルナー・パニツキ、ヴェルナー・シュトライプの各将官とヴァルター・クルピンスキー、ヴァルター・グラーゼマン両中佐を参考人として召喚したが、裁判の前に連邦国防大臣は国務長官(Volkmar Hopf)を通じて参考人に証言する権利を与えることはできないと知らせた。バルト解任でのシュトラウスの処置は誤りであると判断され、バルトは元の地位に復帰した。しかし、シュトラウスは軍事オンブズマンのヘルムート・ハイエから決定を受け入れるように強いられるまでこれを無視した。
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