チムー王国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > チムー王国の意味・解説 

チムー王国

(Chimor から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/19 01:22 UTC 版)

チムー王国



900 - 1470
公用語 不明。おそらくはムチック語
首都 チャン・チャン
元首等
900年? - 960年? タカイナモ(初代)
1440年? - 1470年ミンチャンカマン(最後)
変遷
成立 900年?
滅亡1470年

チムー王国(チムーおうこく、Chimú)は, ペルー北部の沿岸部でチムー文化を担った王国で、850年頃から1470年頃まで存在した。後期中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000kmの海岸線とアンデスの人口の2/3を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャン

チムー王国はモチェ文化の遺民によって興された。最初の谷々が喜んで武力を合わせていたようだったが、シカンを征服した。カハマルカ文化とワリ文化の影響を大きく受けていた。伝説によれば、首都チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという人物によって創られたという。

チムーはインカ帝国を止めるチャンスがあった最後の王国だった。しかしトゥパック・インカによるインカの侵攻が1470年代に始まり、タカイナモの子孫である国王ミンチャンカマンは敗れ、ワイナ・カパックの即位した1493年には侵略はほぼ終了していた。

国が亡びる数十年前、1400年代前半には、140人を上回る大勢の子供を神に捧げる生贄の儀式が行われており、大掛かりな儀式を必要とする規模の天災の発生と国力衰退の関連性も注目されている[1][2]

チムーの陶器は漆黒だった。また、精巧複雑な金工でも知られ、先コロンブス期で最先端技術の一つだった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 子ども137人とラマ200頭、心臓抜かれ生贄に ペルー古代文明の遺跡で発掘”. CNN (2019年3月7日). 2019年6月12日閲覧。
  2. ^ 子供140人生贄 550年前のペルーで何があった?”. 日経スタイル (2018年5月14日). 2019年6月11日閲覧。

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「チムー王国」の関連用語

チムー王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



チムー王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのチムー王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS