ベルナデッタ・スビルーとは? わかりやすく解説

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ベルナデッタ・スビルー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 03:06 UTC 版)

ベルナデッタ(ベルナデット)・スビルー(Bernadette Soubirous, 1844年1月7日 - 1879年4月16日)は、フランス聖女。南仏のルルド聖母の出現を体験し、後にヌヴェールの愛徳女子修道会の修道女となる。写真に撮られたカトリック教会の最初の聖人である [脚注 1]。ベルナデッタによって発見された泉の水によって不治の病の治癒例が多く見られ、教会が公認したものだけでも68例にのぼり、ルルドはカトリック教会の最大の巡礼地の一つとなった[脚注 2]


  1. ^ もっとも有名な最初の6枚の写真は、1861年末から1862年初頭にかけての間に、小神学校で化学を教えていポール・ベルナドゥ神父によって撮影された。René Laurentin(2008), pp.245-246. cf. アイヴァン・ギャスケル(2009)。
  2. ^ cf. Guérisons et Miracles(「治癒と奇跡」のリスト) in site officiel de Lourdes. 2011年3月22日付のフランスの有力紙『フィガロ』は、“Lourdes:une nouvelle guérison reconnue par l’Église” と題する記事のなかで、セルジュ・フランソワの治癒例が68番目の奇跡として公認されたと報じた。
  3. ^ 本名はマリー=ベルナルド(Marie-Bernarde)であり、「ベルナデット」はその通称。「ベルナデッタ」という呼び方は、列聖後のラテン語的呼称であり、フランスの歴史的人物の呼称としては「ベルナデット・スビルー」、ガスコーニュ方言では「ベルナデッタ・ソビロス」である。ピレネー地方では、建物を姓のかわりに呼ぶ習慣があり、警察署での尋問では「ベルナデット・ボリー」と答えている。聖女が生前「ベルナデッタ」と自称したことは一度もない。cf. エリザベート・クラヴリ(2010)、p.20.
  4. ^ ローランタン(2004)、pp.16-17. ピレネー地方の男女別のない長子相続制度である特異な「直系家族」(ル・プレー)の詳細については、cf. Rolande Bonnain(1986), p.132.
  5. ^ 10歳を迎えた信者が初めて聖体秘跡を受ける習慣。
  6. ^ ローランタン(2004)、pp.15-31.「ギゾー法」(1830)と「ファルー法」(1850)によって、初等教育は公民の基本的権限として理解されるようになったが、1882年3月28法の成立まで、フランスではまだ義務教育諸法は整備されていなかった。cf. 高津芳則(1988)
  7. ^ 邦訳書に散見される「ガブ川」「ガーヴ川」などの表記は誤訳。ガーヴフランス語版とは、ピレネー山脈を水源とする「急流」や「激流」について18世紀末に付けられた呼称であり、固有名詞ではない。“Gave de Pau” とは、「ポーの激流、急流」の意である。百科全書ではすでに、「(男性名詞)地理用語。ベアルン地方〔ピレネー地方の大革命以前の歴史的呼称〕のいくつかの川に共通の呼称。これらの川はすべてピレネー山脈やアラゴン地方に水源を有しており、アスプ、オサン、オレロン、ポーのようなものがある。急流であるがゆえに舟を出すことはできないが、魚は極めて量富である」という定義が見られる。cf. “Gave” in Encyclopédie de Diderot et d'Alembert
  8. ^ 1858年当時と今日ではルルドの地形は異なる。ベルナデットたちが渡った支流は埋め立てれ、かつて牧草地であった中州と一体化し、そこに無原罪の御宿り、ロザリオ、聖ピオ10世の名前を冠した大聖堂が散在している。この牧草地では、ビゴール豚が放牧されていた。パトリック・マーンハム(p.8)の「1858当時のルルド」は概略図で正確ではない。マトン師の『ルルドの姫君』(p.8)のルルドの地図は、この著書が依拠しているベルトランの『ルルドの出来事の批評史』にあるものを手書きで写したもので、これも小さな水路名が省略されている。ベルトランの原著(1913, pp.22-23)にある地図は当時の地名を復元しており、後に刊行された研究書の中では、ローランタンの合冊本(2008, pp.424-425)がもっとも精確な当時の地図を提供している。
  9. ^ ベルナデットはいくつかの祈祷文(「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「天使祝詞」「栄唱」)を覚えていたが、十字を切る際に唱えるのは、「栄唱」の “Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.”(栄光は父と子と聖霊に)の個所である。
  10. ^ cf. 新共同訳「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた」(2章1-4節)。
  11. ^ ミエ夫人(Jeanne-Marie Milhet, 1813-1892)は、ルルド屈指の富豪の未亡人だった。
  12. ^ 初聖体の後の1858年9月8日に、ベルナデット自身も入会を許された。cf. André Ravier(1993), p.50. 小林珍雄が「ルルド処女会」と意訳しているように、《幼きマリア会》(Enfant de Marie)は、ルルドの未婚女性の信心会で、正式名称は、Association pieuse des Enfants de Marie de Lourdes(ルルド幼きマリア信心会)というものであり、今日も活動を続けている。1838 年12月8日ボーヌ愛徳孤児院のなかで誕生し、1840年2月2日に教会当局から公認され《幼きマリア会》は、その後フランス全土に普及し、「ルルド幼きマリア信心会」もその一つである。cf. “La naissance officielle des enfants de Marie”. また、青色はマリアの「清純さ」を象徴する色であり、足元の薔薇は、聖母の伝統的なアトリビュートであった。
  13. ^ 原文は、“Boulet aoue la gracia de bié aci penden quinze dias.” であり、現在の標準フランス語では “Voulez-vous avoir la grâce de venir ici pendant quinze jours ?” となる。教区司祭のベルナデットの呼びかけが「お前」(tu)となっていることからわかるように、通常は子供相手には用いられない丁重な表現である。cf. René Laurentin(2008), p.49.
  14. ^ この“Aquero”は、最初の音節にアクセント(Aquéro)があると「その女性」という意で南部方言に広範に存在するが、後ろの音節のアクセント(Aquerò)があると「あれ、それ」という意になり、こうした指示代名詞としての用法はルルド近辺以外では見られない。また、人影に関してベルナデットが《あれ》という抽象的な表現を用いたことに関して、ローランタンは、超越的な存在を神秘家たちが夜や無など言葉であらわして「絶対的他者」を俗化せず伝える、否定神学に通ずる便法と見なしている。cf. René Laurentin(1979), p.56.
  15. ^ cf. Marie- Dominique Peyramale(ペラマール神父とその親族)。ベルナデットは、官憲による迫害から身を挺して自分を庇護くれたペラマール神父に対する感謝の念を終生持ち続け、神父に訃報に接し、「敬愛する神父様の突然の訃報に衝撃を受けております。ルルドの住民たちにとって、何という恐ろしい喪失でしょう!ペラマール神父様が主の栄光と彼らの救霊のためになされたご尽力にお報いしなければ、恩知らずになることでしょう」(1877年7月15日付)と助任司祭のポミアン神父に書き送っている。ペラマール神父が亡くなったのは、9月8日の聖母マリア誕生の祝日であった。修道院の二階で祈っていたベルナデットは、この訃報に泣き伏したという。cf. André Ravier(1993), p.138.
  16. ^ ローランタン(2004)、p.133. ベルナデット自身がコートレの温泉に行っているように、ビレネー山麓は、コートレ、バニェール、バレージュという三大湯治場を擁し、18世紀末から19世紀にかけて一種の湯治ブームがあった。cf. 関一敏(1993)、p.63.
  17. ^ 「彼女はおまえに何と言ったのだ」というペラマール神父の問いに対して、ベルナデットは、「司祭たちのところに行って、ここに〔宗教上の〕行列をしてくるように伝えて下さい」(“D'aller dire aux prêtres qu'on vienne ici en procession.”)と述べたことを伝えた。René Laurentin(1961-1965), t.5, p.166.
  18. ^ Père Régis-Marie de la Teyssonnière,“Les enfants de Marie”(14 juin 2011)カトリック教会が公式するろうそく行列は、トゥールーズのカプチン会のマリー=アントワーヌ・ド・ラヴォール神父の発案により1872年8月28日に始まり、翌1873年5月27日には、洞窟までマリア賛歌を歌いながら移動する今日の行列のスタイルが確立した。cf. PP. Sempé et Duboé(1931), p.300.
  19. ^ 第二帝政の宗教省は、教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)の進展を嫌って、ローマで行われた日本二十六聖人の列聖式にフランスの司教団が参加することを妨害しようとしたが、ベルナデットをヌヴェール愛徳修道会に斡旋したフォルカード司教は、1862年6月8日、ナポレオン3世を説得して出席した。Edmond Marbot(1889), pp.352-353.
  20. ^ cf. 小倉孝誠(1997)、pp.189-221. 記事名は「ルルドの奇跡の洞窟」(“La Grotte miraculeuse de Lourdes” par Ferré in L'Illustraion, no 817, 23 octobre 1858)。
  21. ^ ローランタン(2004)、p.152. ピレネー地方の方言は、h の気音を発音し、動詞変化によって主語が理解されるなど近代の標準フランス語では失われた、ラテン語的な発音や古い統辞法を残していた。cf. 工藤進(1988)、pp.76-85.
  22. ^ 露出部には蝋製のマスクが被せられている。cf. Thomas J. Craughwell, Saints Preserved. Random House, 2011, p. 34.
  23. ^ 『ベルナデットの歌』の序文で、ヴェルフェルは、「もしも、私がこの絶望的な状況から脱却することができ、アメリカの岸辺に行き着いて救われることができたら、私はほかのどんな作にとりかかるよりも先にベルナデットの歌を歌いたい、私の全力を尽くして歌いたい」(片山敏彦訳『ベルナデットの歌』上巻、ix)と述べている。ヴェルフェルは、プラハ生まれのユダヤ人だが、幼少期には、バルバラ・ジムンコヴァというカトリック信者の家庭教師に連れられて、しばしば教会のミサに通った。また、ライプツィヒ大学進学以前は、カトリック系の修道院付属学校に学び、先輩にはライナー・マリア・リルケがいた。cf. 高本研一「フランツ・ヴェルフェル」、『世界文学大事典』集英社、1996年、第1巻、p.387.
  24. ^ ジェニファー・ジョーンズ自身も親子代々のカトリック信者。
  25. ^ このベルナデットの発言は、普仏戦争でフランスの敗北が明らかな時期(1870年12月9日)に、王党派で『ユダヤ人、ユダヤ教およびキリスト教民衆のユダヤ化』の著者として知られる反動的な作家、グジュノー・デ・ムソーフランス語版によってなされた面談の際のもので、対独復讐心とナショナリズムにベルナデットを政治利用しようという試みは、ベルナデットの信仰心によって一蹴された。Cf. René Laurentin(1972), p.131.
  26. ^ ベルナデットは、ボリーの水車小屋で生まれた。
  27. ^ ヌヴェール愛徳修道会によるルルドの慈善病院は、初等教育を施す女子校を運営しており、その内2クラスが無料で貧しい家庭の女子に向けて開かれていた。当初ベルナデットの母親は、小学校教諭のファニー・ニコロを公教要理の教師と考えていたがこれは無料ではなく、1858年10月14歳なってから、ベルナデットは先の無料クラスで授業を受けることになった。cf. Annne Bernet(1994), p.58. しかし、それまで正規の教育を受けたことがないベルナデットの学習は著しく遅れており、1858年12月から1859年1月の間の時期にこのアントワネット・タルディヴァイユから書字を習うことになった。バルトレスの教会には、ベルナデットの習字練習の原稿(1858年12月20日付)が残されている。練習したフランス語の単語は「マリア」(marie)であるが、通常大文字で書かれる語頭の M が小文字で書かれている。この習字の必要は、絶え間ない面会でサインを求められる機会が生じてきたからで、意味もわからない祝辞などを何回も書かされたので、どこでも書ける“p. p. Bernadette.”というサインを案出した。これは “Priez pour Bernadette.”の略記で、「ベルナデットのために祈って下さい」の意である。ベルナデットが晩年残した書簡の見事な筆致は、この時期からの習字練習によるものであり、アンドレ・ラヴィエは、ベルナデットの筆致の変化を一覧表にしている。cf. André Ravier(1993), p.139 et pp.530-531.
  28. ^ 「ヴェルフェル氏の『ベルナデットの歌』と題する有名な作品とそれに立脚して撮影されたフィルムの中で、ベルナデットの清らかな無邪気な顔に対して修練長は古くさいわらずやの女として、全くいとわしいものとしてあらわされている」が、「修練長の性格や霊的生活はその生活と同じようにひどく変形され」ており、「まったくの小説的妄想」である。cf. ミシェル・ド・サン=ピエール(1958)、pp.226-227. また、マリー・テレーズ・ヴォズーがルルド時代に、ベルナデットの公教要理の教師であった事実もない。
  29. ^ ポン・ヴュー(古橋)を渡り、少女たちがマサビエルの洞窟に向かった通りは、今日「ベルナデット・スビルー大通り」と呼ばれ、この大通りと南側から交わるポー川西岸に沿った通りが「ペラマール大通り」と呼ばれている。
  30. ^ 「ガリコイツ」は、Garikoitz, Garikoïtz など異綴のある、フランスとスペインにまたがるバスク系の姓で、標準フランス語の音韻原則から「ガリコワ」と読むのは誤りである。ミシェル・ガリコイツの生涯については、クレルヴァルの聖ジョセフ教会の「週報」(2002年8月6日付)に詳しい。また、その思想に関しては、cf. Pierre Mieyaa(1976).
  31. ^ cf. ベタラム会公式サイト Bétharram Societas Sacratissimi Cordis Jesu(略称:S.S.J.)。ルルド教区の教会の入り口には、ガリコイツとベルナデットのレリーフが並び合っている。また、ガリコイツは、ルルドに関する調査を行い委員会で聖母の出現を宣言したローランス司教の教え子でもある。ベルナデットとガリコイツの関係の詳細については、cf. Jean Oyenhart(1988).
  32. ^ 中公文庫、1993年
  33. ^ Le voyage à Lourdes, p.793. 精神医学の黎明期であった19世紀のフランスでは、女性の狂気と身体性問題がさかんに論じられたが、今日では思想史的関心しか呼ばない観点である。cf. ヤニック・リーパ(1993)、pp.5-13.
  34. ^ 原文は、“Les foules de Lourdes / J.-K. Huysmans”で読むことができる。
  35. ^ 英訳本の版権は、アルマ・マーラーが生前所有していた。ドイツ語版と英語版には異同があり、英語版には、「英国放送は私がナチスによって殺害されたと報じた(…)毎朝起きるたびに、私はまだ自由でいられるのか、捕らわれて死刑になるのかわからない状態だった」(The Song of Bernadette, xiv)と、直接ナチスを批判する十数行の文が付加されている。
  36. ^ 2006年度渋沢・クローデル賞受賞作。
  37. ^ モントリオールで出版された1870年以降の版にピウス9世 (ローマ教皇)の序文付。
  38. ^ ベルナデットを列聖したピウス11世 (ローマ教皇)の序文付。
  39. ^ Huysmans のものを除く上掲3冊は、合冊本(Lourdes, Paris, Omnibus, 1998)に収録されている。
  1. ^ ローランタン(2004)、pp.15-16.
  2. ^ ローランタン(2004)、pp.19-20.
  3. ^ ローランタン(2004)、pp.21-22.
  4. ^ ローランタン(2004)、pp.24-31.
  5. ^ ローランタン(2004)、pp.46-56.
  6. ^ ローランタン(2004)、pp.55-56.
  7. ^ ローランタン(2004)、pp.56-62.
  8. ^ René Laurentin(1961-1965), t.2, p.349.
  9. ^ Jean-Baptiste Estrade(1889), p.94.
  10. ^ ローランタン(2004)、p.88.
  11. ^ ローランタン(2004)、pp.89-92.
  12. ^ アンドレ・ラヴィエ(1994)、p.24.
  13. ^ 志村辰弥(1958)、pp.122-13.
  14. ^ cf. J. M. J. Bouillat, “Mgr Peyramale, curé de Lourdes(1811-1877)” in Les Contemporaines, 28 septembre 1902.
  15. ^ 志村辰弥(1958)、p.100-102.
  16. ^ 志村辰弥(1958)、pp.86-90.
  17. ^ Henri Lasserre(1869), pp.171-179.
  18. ^ Pierre Romain Dozous(1874), pp.111-112.
  19. ^ ローランタン(2004)、p.100-102.
  20. ^ René Laurentin(1972), pp.173-180.
  21. ^ カール・フォン・アーレティン『カトリシズム – 教皇と近代社会』平凡社、1973年、p.98.
  22. ^ cf. 鹿島茂(2004)、p.80.
  23. ^ 中木康夫(1975)、p.193.
  24. ^ ローランタン(2004)、pp.176-198.
  25. ^ Edmond Marbot(1889), pp.21-22.
  26. ^ cf. 「ベルナデッタとヌヴェール愛徳修道会
  27. ^ アンドレ・ラヴィエ(1994)、p.41.
  28. ^ エリザベート・クラヴリ(2010)、p.59.
  29. ^ “splenlorem et virtutem” in Dilecto Filio Henrico Lasserre de Pius P. P. IX.
  30. ^ Alexis Carrel(1949), p.49.
  31. ^ Alexis Carrel(1949), p.50.
  32. ^ cf. “Le Pape Jean-Paul II en pèlerinage”par Olivier Bras avec AFP, 14 août 2004.
  33. ^ “Message du Pape pour la Journée Mondiale du Malade 2012” in Site officiel de Lourdes.
  34. ^ Henry Martin Gillet(1952), pp.214-218,
  35. ^ 志村辰弥(1958)、pp.196-198.
  36. ^ 志村辰弥(1958)、p.195.
  37. ^ cf. 学校法人「聖母女学院」沿革
  38. ^ 1949年5月14日、有楽町スバル座。
  39. ^ ベルナデッタ・スビルー(1979)、p.9.
  40. ^ Sainte Bernadette-Nevers Archived 2011年6月29日, at the Wayback Machine.(ヌヴェール愛徳修道会公式サイト)
  41. ^ Edmond Marbot(1889), pp.21-22.
  42. ^ ローランタン(2004)、p.246.
  43. ^ ローランタン(2004)、p.153.
  44. ^ ローランタン(2004)、p.291.
  45. ^ ローランタン(2004)、p.256.
  46. ^ ローランタン(2004)、p.339.
  47. ^ ルイ=イヤサント・プティット(1954)、p.39.
  48. ^ ルイ=イヤサント・プティット(1954)、p.62.
  49. ^ アンドレ・ラヴィエ(1984)、pp.65-66.
  50. ^ ローランタン(2004)、p.100.
  51. ^ Pierre Romain Dozous(1874), pp.89-90.
  52. ^ Jean-Baptiste Estrade(1889), p.92-93.
  53. ^ ローランタン(2004)、p.8.
  54. ^ ローランタン(2004)、p.227.
  55. ^ ローランタン(2004)、p.7.
  56. ^ PP. Sempé et Duboé(1931), p.201.
  57. ^ ローランタン(2004)、p.306.
  58. ^ cf. Lycée-Collège Peyramale St Joseph à Lourdes
  59. ^ cf. 本河内ルルド
  60. ^ p.155.
  61. ^ Litanies de sainte Bernadette Soubirous
  62. ^ François Mauriac, Pèlerins de Lourdes, 1931 in Lourdes, Omnibus, 1998, p.852.
  63. ^ L’institution de Lourdes” in Marie, 1954.


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