2006年2月の事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 00:36 UTC 版)
「ネルソン・ピケ・サーキット」の記事における「2006年2月の事件」の解説
2006年2月6日、ブラジル自動車連盟(CBA)の会長パウロ・スカリオーネ(Paulo Scaglione)が同市市内において会見を開き、ネルソン・ピケ・サーキットにおける工事を禁じることを求める旨の訴えを翌日2月7日に起こすことを発表した。これにより、サーキットの未来は司法の手に委ねられることとなった(結果的にこの訴えは意味を為さなかった)。 この動きに関連して、かねてパン・アメリカンゲームズの開催を推進していた同市市長セザール・マイア(César Maia)は、仮に施設の建設が不可能となった場合に政治的に痛手を負う恐れが強くなったが、ここで、ひとつの偶然から茶番劇が起きることとなった。CBAの発表の翌々日の2月8日、同年のF1ベルギーGPの開催が中止される旨の発表がなされたことを奇貨として、マイアは翌2月9日にこのサーキットでその代替開催を名乗り出るという政治的パフォーマンスを演じてみせ、その思惑通り、報道から間もなくこの提案はバーニー・エクレストンによって一蹴される結果となった。この代替開催の提案については海外メディアからもいたって冷ややかに受け取られ、結果的にではあるが、ブラジル国外のレース関係者のネルソン・ピケ・サーキットへの関心が低いものであることを示すことともなった。 表向きの発言としては、この時点でマイアはネルソン・ピケ・サーキットには一切手を付けないと確約してみせたものの、CBAはじめブラジルのレース関係者の間では市の対応に対する不信感がかえって強まる結果となった。(前述したように市はその後コース改修を行った)
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