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高野百介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 09:20 UTC 版)

高野 百介
基本情報
国籍 日本
出身地 長野県
生年月日 (1912-07-09) 1912年7月9日
没年月日 (1945-04-01) 1945年4月1日(32歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1938年
初出場 1938年8月27日
最終出場 1938年11月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 1945年4月1日)は、長野県[1]出身のプロ野球選手外野手)。

来歴・人物

1912年に長野県で生まれた。松本商業学校(現・松商学園高等学校)時代は同校にベンチコーチとして在籍していた藤本定義の指導を受け、1928年春の甲子園に連続出場し、夏の大会ではエースとして大活躍した中島治康と共に、同校の優勝に貢献した[1]。高野自身は主に8番ライトで出場し、準決勝の高松中戦では先制のセンター前タイムリーヒットを打った[2][出典無効]。松本商を卒業後は立教大学へ進学した[1]

1938年南海軍へ入団[1]1938年秋季シーズンはリーグ戦の40試合に全試合出場し、中村金次に次いで「第2代ホークス4番打者」[3][出典無効] に任されるなど、中心打者として活躍した。主に3~6番を打ち、レフトを守っていた[2][出典無効]。結果的に現役最後の出場となった、11月15日の名古屋軍後楽園球場)では、当時のエース松尾幸造から試合を決める三塁打を放ち、チームの創設年度最下位陥落の危機を救った[4][出典無効]

1938年シーズン終了後、応召1945年4月1日シンガポールから日本へ帰国する途中に乗船した阿波丸アメリカ海軍潜水艦に攻撃され(阿波丸事件)、戦死した[5]。32歳没。

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に彼の名が刻まれている[6]

高野の娘は静岡県加藤学園高等学校校長として同校野球部を創設した人物で、加藤学園高等学校野球部は新型コロナウイルスの影響により開催中止となった第92回選抜高等学校野球大会出場校となり、代替の2020年甲子園高校野球交流試合に出場した[7]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1938 南海 40 150 131 15 28 7 2 1 42 15 8 -- 2 -- 17 -- 0 25 -- .214 .304 .321 .625
通算:1年 40 150 131 15 28 7 2 1 42 15 8 -- 2 -- 17 -- 0 25 -- .214 .304 .321 .625
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 7 (1938年)[8]

脚注

関連項目

外部リンク




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