高毓浵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/07 13:56 UTC 版)
| 高毓浵 | |
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『中国紳士録 第二版』(1942年)
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| プロフィール | |
| 出生: | 1877年[1][注 1] |
| 死去: | 1956年[1] |
| 出身地: | |
| 職業: | 官僚・詩人・書家・詞学者・文学者 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 高毓浵 |
| 簡体字: | 高毓浵 |
| 拼音: | Gāo Yùtóng |
| ラテン字: | Kao Yü-t’ung |
| 和名表記: | こう いくとう |
| 発音転記: | カオ・ユートン(ガオ・ユートン) |
高 毓浵(こう いくとう、1877年 – 1956年)は、清・中華民国・中華人民共和国の官僚・詩人・書家・詞学者・文学者。本名は令謙 。字は淞泉、浣卿。号は東岑、潜子[1]。直隷派の有力軍人である斉燮元・孫伝芳の腹心と目される。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会においても斉配下の官僚として活動した。その一方で、詩や書を善くする文化人としても知られ、様々な著作を残した。
事績
初期の活動
光緒甲午科(1894年)挙人、癸卯科(1903年)進士。翰林院庶吉士となり、散館(所定の学期を満了)して編修となった。また、京師大学堂の経文科教習(講師)も兼任している。後に日本へ渡り、早稲田大学補修班で満期修学した。帰国後は西洋の文化・歴史を講学した[1][2]。
中華民国成立後の 1913年(民国2年)3月、直隷省民政長公署総務処科長として任用される[3]。以後、江蘇省下関商埠局局長、江蘇督軍省長公署諮議、大総統府諮議、江陰下関税務所長、蘇皖贛巡閲使公署機要処会弁、浙閩蘇皖贛(五省聯軍)総司令部秘書長を歴任した[2]。なお、これらの経歴により、直隷派の有力軍人である斉燮元や孫伝芳との縁故が形成されたと考えられる。
民国初期における高毓浵は、文藝分野でも精力的に活動している。詞社(詩人・詞学者等による結社)に関しては、上海の漚社や虞社、北京の蟄園詩社などに参与している。また、北京国学講習所の設立に携わり、設立後は古文・文学の講師となった。雑誌『国学書院叢刊』の発刊にも関与し、1929年から1934年にかけては故郷で『静海県志』の総纂(編纂における最高責任者)をつとめた[1]。
親日政権での活動
王克敏が中華民国臨時政府を創設すると、高毓浵もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、治安部(総長:斉燮元)で参事に任命されており[4]、これは斉の招聘を受けたものと推測可能である。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。治安部は治安総署(督弁:斉燮元)に改組されたが、高毓浵は参事代理として重任された[5][注 2]。1943年(民国32年)3月、高は内務総署(督弁:斉燮元)へ異動し、礼俗局局長に就任している[6][7][注 3]。
同年秋に華北政務委員会主宰の武廟大祭において齍官をつとめた記録[8]を最後として、『華北政務委員会公報』における高毓浵の人事情報は途絶えている。また同年11月、華北政務委員会機構改革により内務総署が廃止されたが、高の異動情報は見当たらない。
晩年
汪兆銘政権崩壊後における高毓浵の動向の詳細は不明である。ただし、漢奸として摘発されたとの情報は見当たらない。1956年、死去[1]。享年80。
著作
- 『潜子詩鈔』
- 『潜子駢文』
- 『補春秋大事表』
- 『潜子詞草』
- 『共和詩徴』
- 『毛詩古音釈』
- 『説文別釈』
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 于(2022)、40-41頁。
- ^ a b c 満蒙資料協会編(1942)、139頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:高毓浵」
- ^ 臨時政府令、民国27年1月1日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第1号、民国27年1月17日、14-15頁)。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第65号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、本会18頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第841号、民国32年2月12日(『華北政務委員会公報』第191・192期合刊、民国32年2月28日、本会4頁)。
- ^ 国民政府令、民国32年3月11日(『日文国民政府彙報』第169号、民国32年3月29日、中国和文出版社、2-3頁)。
- ^ 『華北政務委員会公報』第243期、民国32年11月11日、本会1頁。
参考文献
- 高毓浵のページへのリンク